「もうちょっと」師匠の思い
驚くばかりの急降下、急上昇の「番付エレベーター」を師匠の伊勢ケ浜はどう見ていたか。序二段まで番付を落としたのはさすがに「予想外」だったのだろうが、師匠には「病気さえ治せば、必ず復活できる」という確信があったのだろう。
親方自身も現役時代、すい臓炎で悩まされた。身体をつくるため朝から晩まで食べ続け、身体の負担が大きくなっていた。病気になると、身体に力が入らなくなり、握力は一般女性よりも落ちてしまう。こんな経験がある師匠だからこそ、「辞めたい」と何度も願い出た照ノ富士を説得し、力士を続けさせることができた。
<照ノ富士の場合も、病気になって力も気力もなくなり、辛い気持ちはよく分かりました。それでも引き留めたのは、まだ若いし、内臓を治してからでもやり直しがきくのではないかという思いからです><けがや病気で辞めると、治った時に必ず「もうちょっとやれたんじゃないか」と思うはずです。そうなると絶対に後悔するので、その〝もうちょっと〟をやらせたかったんです。せっかく遠いところから相撲をしにきて、大関にまでなったのに、そんな形で辞めたら後悔するじゃないですか>(239~240頁)。愛弟子が周囲の支えもあって見事にその期待に応えたわけだ。
番付を大きく落とす前と後では何がどう変わったのか。ここも師匠に解説してもらおう。
<ケガをしたことで、本人の意識も相撲も変わりました。前に前に出る相撲。投げや力に頼らない、理にかなった相撲です。もちろん力も使いますが、必要なところだけで出す。下がって抱え込んで何かをするのではなく、前に出ること。土俵際で無理して残してしまうと、またケガにつながりかねません。こうしたことを、稽古場で身につけるようになりました>(242頁)
親方照ノ富士への期待
照ノ富士の横綱在位は21場所。その期間は、大関から陥落し、序二段まで番付を落とし、そこから再び這い上がってきた期間とほぼ重なる。記録より「記憶に残る」横綱として愛された照ノ富士。25年初場所を最後に現役引退したが、会見で「思い出の一番」として、序二段で臨んだ19年春場所初日、若野口との一戦を挙げた。普段、土俵に上がって緊張したことはほとんどなかったという照ノ富士だが、この時ばかりは「14年間で一番緊張してそわそわした」という。
照ノ富士の引退で、一時的に「横綱不在」の状態が生まれたが、同じモンゴル出身の豊昇龍が初場所優勝で横綱に昇格し、バトンを受け継ぐことができた。
今後は照ノ富士親方として後進の指導に当たるが、師匠の伊勢ケ浜親方は今年7月、65歳の定年を迎え、その後は照ノ富士親方が部屋を継承するとみられている。
「相撲人生を2度、楽しむことができた」という照ノ富士親方だ。人並外れた天国と地獄を味わっただけに日本相撲協会の八角理事長も「いろいろな人の気持ちが分かる、いい親方になるだろう」と期待を寄せた。