2025年3月15日(土)

スポーツ名著から読む現代史

2025年2月11日

 客席からのブーイングの嵐に心を痛めた照ノ富士は、7月の名古屋場所を前に、今度は原因不明の体の不調に苦しめられるようになった。体中がむくんで、できものができる。何をしても疲れるし、自分の身体が自分のものでないような感覚に襲われた。

 病院で検査を受け、糖尿病と診断された。しかも腎臓に結石があり、C型肝炎にも罹患していることがわかった。長年の無理がたたって内臓はボロボロになっていた。

 筋肉をつけるためトレーニングをしているのに、やればやるほど筋肉が落ちていく。体中がむくんで、顔も腫れて目が見えなくなっていく。眠ろうとしても、体中のできものと心臓が痛くて眠れない――。当時、照ノ富士を襲った症状である。

 もはや相撲をとれる状態ではなくなった。名古屋場所、秋場所とも1勝どまりで途中休場し、大関から陥落。その後も0勝、0勝、6勝、0勝と負け続け、ついに幕下に陥落した。

 <もう、相撲は辞めたいとしか思えなかった。病気については、親方にも相談した。すると、「たとえ辞めたとしたって、病気は治さないと長生きできない。とにかく、まずは治すことを考えてからだ」。そう言われて、私は一度しっかり休場して、病気と両ひざの治療に専念しようと決意した>(140頁)。18年名古屋場所からは4場所連続全休で番付はついに序二段まで転落した。

妻の支え

 「まず糖尿病を治さないことには、ケガも治りにくい」と、いくつもの病院を訪ね回った。その中で一人の医師から「身体から少しだけインスリンが出ているから、完治するかどうかは分からないが」と、別の治療法を勧められた。種類の違うインスリンを服用し「それ以外の薬はのまないように」と告げられた。加えて断酒と厳しい食事制限が課せられた。

 「治るなら、なんでもします」。こうなったのも、暴飲暴食や不規則な生活を繰り返した自分のせいと思う照ノ富士は1年以上続く闘病生活に突入した。

 照ノ富士の復活の陰に夫人の支えがあった。妻・ドルジハンドさんは照ノ富士の3歳年下である。ドルジハンドさんはモンゴル出身の先輩力士、旭天鵬のいとこで、旭天鵬が現役時代から大島部屋にホームステイし、東京の大学に通っていた。19歳のころ、知人の紹介で照ノ富士と交際を始めた。照ノ富士が大関を目前に、日の出の勢いで番付を駆け上がっていたころだ。

 交際を始めて約3年後、照ノ富士が両ひざの故障に続いて糖尿病に苦しんだころはドルジハンドさんも寄り添って励まし続けた。<「けがと病気で(番付が)落ちた時、これは二人で乗り越えないといけないと感じた」>とドルジハンドさんは同書の中で振り返っている(153頁)。

 驚いたのは二人が結婚したタイミングだ。照ノ富士は19年の2月、バレンタインデーに「結婚しよう」と申し込んだ。ドルジハンドさんは即刻OKし、翌日、婚姻届けを出した。19年2月といえば、前の月の初場所を全休し、3月場所に序二段まで番付を落とすことがほぼ確定していた時期である。つまり、どん底まで転落した時点で照ノ富士は結婚を申し込み、ドルジハンドさんは承諾したことになる。

再び上昇気流に

 裏返せば、二人が結婚届を出した時点から照ノ富士の復活への道が始まったといっていい。19年春場所、序二段西48枚目で7戦全勝とし、復活への足掛かりをつかんだ照ノ富士は続く3場所をいずれも6勝1敗で三段目、幕下へと着実に番付を上げていった。19年九州場所は7戦全勝で幕下優勝を飾り、翌年初場所からの十両復帰を決めた。

 十両も2場所で通過、20年夏場所から待望の幕内復帰を決めていたが、思いもしない「足踏み」を余儀なくされた。夏場所は新型コロナ感染症の蔓延で中止となり、続く名古屋場所も会場を東京国技館に移し、観客の入場制限を設けた中での開催となった。

 異例の本場所だったが、1場所待たされた分、パワーが倍加。東前頭17枚目で幕内に戻った照ノ富士が13勝2敗で2度目の幕内最高優勝を達成した。大相撲史上4人目の「幕尻優勝」だった。

 その後は以前の強さを取り戻した照ノ富士が一直線に番付を駆け上がり、序二段での土俵復帰から2年後の21年初場所、東関脇で通算3度目の優勝賜杯を手にし、大関陥落から3年半、21場所ぶりに大関に返り咲いた。さらに大関2場所目の名古屋場所は14勝1敗で優勝こそ逃したが、念願の横綱昇進を決めた。


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