手始めに17年8月、外交的には中国との関係改善が示され始めた時期にもかかわらず、内務省は、シンガポール国立大学公共政策大学院所属の中国系アメリカ国籍者ホアン・ジン(黄靖)教授と妻を「外国政府の工作員」と断定し、国外永久追放した。同教授は中国への「現実的対応」を主張する国際関係・中国関連専門の著名論客であったが、内務省によれば「外国情報機関と共謀して外交政策や世論に影響を与えていた」とされる。これに関して政府は、「他国家がいかに巨大・強力でも、内政干渉には決して沈黙しない」と明言した。
以降、シンガポールでは中国の「代理人」たちの排除が静かに進むと同時に、21年には、外国影響下の人物・団体による国内政治・世論への操作・干渉を防止する「外国干渉対策法」(FICA)が成立した。24年2月にも、シンガポール国籍を取得した香港出身の人物が、中国の全国政治協商会議と全国人民代表大会に「海外中国代表」として参加し、国内では中国の利益に沿う発言や活動を繰り返していたとして、同法に基づく特定人物に指定されるなど、中国の影響力浸透を阻止する姿勢を明確にしている。
他のASEAN諸国とは異なるシンガポールの立ち位置
22年にリー首相は「未来に嵐が発生しつつある」と指摘し、「現実を直視して急速な変化に備えるべき」と警告した。同年にはウォン副首相も、米中新冷戦は「概念上でも遠い先でもない目前の明白な脅威」で、「紛争や戦争の可能性は排除できない」と述べた。シンガポールは、中国の拡張主義だけでなく、米国の長期的な国力・指導力低下や対外政策の不安定化をリスクと捉え、こうした中で問題が構造化・複雑化している現実を理解している。
そして、どの超大国の代理人にもならず、バランス外交の原則を守りながら、米中双方との関係を維持・深化させ、その正直な仲介人という独自の立場をとるとしている。近年は政府首脳が、中国最高指導部との直接的接触・意思疎通を重ねる一方で、米国にもハイレベルでの助言を強化している。同時に、地域の安定維持にはASEAN内の結束に加え、日本、豪州、欧州連合(EU)、インドなど域内外の利害関係国による関与が重要として、関係強化を推進している。
シンガポールの有力シンクタンク「ISEAS」のASEAN有識者意識調査によれば、米中対立の深刻化でどちらかを選択せねばならないと仮定した場合、シンガポールでは米国61.5%:中国38.5%となり、ASEAN全体の米国49.5%:中国50.5%という数値との乖離を示している。これはシンガポールが、中国との経済関係や域内影響力の拡大にもかかわらず、いまだ米国に利があると認識している証左でもある。だが、こうした仮定の事態が現実化しないよう、シンガポールは独自の外交努力を継続しつつ、事態が悪化・破綻した場合ついても覚悟をもって備えつつある。
1965年の建国以来、シンガポールという小都市国家では、国家存立への危機感が官民や種族を問わず国民に幅広く共有されていることが大きな強みである。各種の前提条件が異なるとはいえ、同じく米中対立の狭間に置かれている日本にとっては、この小国がもつ独自の意識と役割、情報蓄積と知見からは得られることが多い。そして先述のように、シンガポ―ルは多角的外交を強化する一環として、私たちが考える以上に日本との関係を重視しており、両国には協力・連携できる余地が大きいことを、改めて認識するべきである。
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