2025年12月6日(土)

WEDGE REPORT

2025年3月3日

処刑・拷問、
深すぎる傷痕

 人々の表情には明るさが戻ったが、その心身に刻まれた傷痕は深い。中心部のマルジャ広場に立つ掲示板には、男性の顔写真が数十枚貼られていた。行方不明になった家族を捜す人たちが情報収集する場になっており、マフムード・ムーサ(11歳)は祖母に連れられて、いとこたちと共に北部ラッカから出てきていた。

 マフムードが「パパは14年に逮捕されて、15年に死んだんだ」と言うと、いとこの少女が付け足した。

 「セドナヤでね」

 バス運転手をしていた父親(当時30歳)はラッカで治安当局に拘束された。ずっと行方が分からなかったが、政権崩壊後に公開されたセドナヤ刑務所の収容者リストに名前があり、15年に死亡していたことが分かったという。遺体がどこにあるかも、どんな理由で死亡したのかも分からず、毎日広場で写真でしか見たことがない父親の手掛かりを探している。

行方不明の男性の情報を求める写真が掲示板を埋める=2025年1月25日、ダマスカス・マルジャ広場

 「人肉処理場」との異名を持つその刑務所は、ダマスカス郊外の高台にそびえていた。鉄条網が張り巡らされた塀の中に入ると、路上に焼け焦げた軍用車両が放置されていた。反体制派を収容していた建物の1階は焼け焦げ、奥の広い作業室には酸のような薬品臭が漂っていた。

反体制派が収監された集団房=2025年1月26日、ダマスカス郊外のセドナヤ刑務所

 政権崩壊で解放された医師ナセル・ハイルアラー(51歳)に建物を案内してもらった。1階のホールで指をさした先に、長さ4メートル、幅と高さが1メートルほどのさびた作業台があった。

 「これが絞首台です。上ったところに縄が結ばれていました。台を動かす音が聞こえたら、処刑が始まることを意味していました」

絞首刑の方法を説明する医師ナセル・ハイルアラー。政権崩壊で解放された=2025年1月26日、ダマスカス郊外のセドナヤ刑務所

 元収容者らでつくる「セドナヤ刑務所収容者・行方不明者協会」は報告書で、11年から18年までに処刑や拷問、餓死などで3万人以上が死亡したと推計する。絞首刑は週2回ほど執行されていたという。

 ナセルは19年に検問所で拘束され、悪名高い通称「パレスチナ支部」などの収容所を転々とさせられた。取り調べ中、両目を覆われて後ろ手に縛られ、ひざまずかされた。取調官にテロの嫌疑を問われ、「診療所で市民を治療しているだけだ」と否認すると顔を足蹴にされ、上の前歯が折れると、こう告げられた。

 「次は頭の骨を折ってやるぞ」

 拷問に耐えて否認し続けた結果、わずか5分の裁判を経て懲役20年の実刑判決を受け、20年にこの刑務所に収監された。

 「セドナヤは終着駅です。ここは死ぬ場所ですから」

 ナセルが4年間過ごした2階の集団房は、絞首台の真上にあたる場所だった。

「セドナヤ」の集団房の床を衣類が埋め尽くしていた=2025年1月26日、ダマスカス郊外のセドナヤ刑務所

 廊下に面して教室ほどの広さの10部屋が一列に並び、入るとかびのようなすえた臭いが鼻を突いた。トレーナーや毛布がぐちゃぐちゃに重なり合う床の角がナセルの居場所だった。金属の壁には細かな文字が刻まれている。鉄片を削った針でコーランをしるして平常心を保ったのだという。

 「入ったときは40人近くいましたが、解放時には20人でした。絞首刑にされたり、病死したり、看守に殴られたりして、次々に死んでいきました」


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