客に通用する仕事のために自分に与えた時間は5年ではなく3年。だから寝る間も惜しみ、懸命に体にすべてを覚え込ませた。3年目が終わった翌日、奉公先からバイクで家に帰り、両親に「今日で辞めたから挨拶に来てくれ」と頼んだ。
「未成年だし、親にちゃんとお礼言ってもらわなならん。親は来てくれたけど、向こうは承知してない。わしが勝手に決めただけで話してないもん。親方は怒ったけど、兄弟子の人たちは辞めさせてやれって」
予定通りに3年で修業を終えた灰外は、その日のうちに母親からもらった2万円を持って金沢に出たという。電話帳で調べた大きな建具店に、勝手に布団を送り付けた。つまり一時預かり所にしたわけだ。わけのわからない布団が届いたほうは困惑したことだろう。
「金沢は初めてで、映画観たり、うどん食べたり、イキイキしとったんだ。で、1カ月後に布団取りに行って、働くことになった別の建具屋に自転車で運んだんや」
18歳からしばらく建具店を転々とし、25歳で納屋を借りて独立。
「見習い扱いで給料が少ないし、年のいったもんが、仕事しないのに高給とりよる。わしより仕事できんのがいい給料でしかも立てなければならん。やめた。で、納屋借りたけど、好き勝手なこと言ってあんまり信用ないもんやさかい、次は家を構えて、住宅の建具や店舗の内装を請け負ったりしてたんや」
我流を貫く
仕事が順調に回り出していたある日、それまで行ったことのなかった市内のデパートに偶然足が向いた。そこで、前年に没した人間国宝・氷見晃堂(ひみこうどう)の展覧会が開催されていた。
「人間国宝って何やろう。朝から晩まで仕事してるさかい、そんなん知らんもん。小さな箱見てお客さんがみんな喜んでる。氷見さんの作品に惚れたんやなく、喜んでるお客さんに惹かれたんや。こんなに喜ばれる仕事があるんかなあ。それならわしもやってみよう。決めた。で、翌日にこれまでのお客さんに、明日から仕事やめますって挨拶に回ったんや」
決めるのも早いが行動も素早い。じっくり考えるとか、生活がどうなるとか、迷ったり悩んだりした形跡がまるでない。奉公先を出る時も、金沢に出る時も、自分の心の赴くままに一目散に駆け出す。そして、36歳のこの日に動いた心の先が、現在の灰外達夫につながる木工芸への道の第一歩になったのである。