2025年12月5日(金)

オトナの教養 週末の一冊

2025年4月26日

身上半減(財産の半分没収)の罰

 蔦重が吉原から日本橋に進出した天明3(1783)年から数年は、天明文化最盛期だったが歴史の分岐点でもあった。浅間山が噴火して飢饉・凶作が広がる一方、イケイケの田沼時代が終わって、質素倹約・文武両道の生真面目な松平定信の時代へと変わった。

 当初は寛政改革の息苦しさを皮肉ろうとした蔦重。だが、寛政3(1791)年に京伝作の3冊の洒落本が幕府に咎められ、京伝が手鎖50日、蔦重が身上半減(財産の半分没収)の罰を受けると、急遽方向転換をした。

 子ども向けの教科書を絵解きした、曲亭馬琴作、勝川春朗(後の葛飾北斎)画の真面目な『実語教幼稚講釈』など、典型的な作品だ。

―― 身上半減でよく潰れなかったですね?

「吉原細見をずっと出版し続けていたし、往来物(子ども向け手習い本)も締めずに継続していた。したたかと言おうか、手堅い商売人でもあったんですね、蔦重は。だから新しい分野にも果敢に挑戦できたわけです」

 蔦重は40歳を過ぎてから、名古屋の版元と組んで本居宣長や加藤千蔭など一流の学者の本を出す一方、浮世絵出版にも本格的に乗り出し新たな領域で新たな才能を開発した。

 歌麿に大首絵の美人画を描かせ、美人画ブームを招来した。東洲斎写楽という謎の人物に特異な役者絵も描かせた。蔦重の家の食客だった十返舎一九は万人受けのする作風であり、滑稽本などの黄表紙を次々出版した。

―― 寛政9(1797)年の蔦重の死後、北斎も馬琴も一九も、みんな大家となり一時代を築きますね。その才能を最初に見抜いていた?

「目配りがとても広く、かつ鋭かったんです」

―― 蔦重は、47歳で亡くなっていますが、死因は何ですか?

「脚気ですね。ビタミンB1不足ですけど、当時は治療法が不明だったため致死性の病でした」

 鈴木さんによれば、蔦重の死後、店は番頭の勇助が蔦重となり2代目を継いだという。

 形式上は4代まで続いたことになっているが、3代目以降は鳴かず飛ばずの状態で、戯作が何とか出せたのは実質2代まで。

「人好きのする人柄や豊富な人脈、時代の流れを読む鋭敏な感覚などは、教わって真似できるものではなく天性のもの。やはり、江戸の出版改革は蔦重だからこそできたこと。別の人が易々と継げるものじゃなかったんです」

 さて、いまあらためて蔦屋重三郎の偉業を偲びその成果を再確認するには、素人にはどんな方法があるのだろうか。

「神保町の古本屋か大きな図書館。そこで蔦重の作った本を実際手に取ってみるのが一番だと思いますね」

 鈴木さんは頷きながら言った。

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