
1950年代半ば、テレビがまだ一般家庭に普及していない頃、駅前の街頭テレビを黒山の人だかりにする一大ヒーローが登場した。
力道山である。空手チョップでシャープ兄弟など白人レスラーを次々に倒す姿は、敗戦に打ちひしがれた日本国民を熱狂させ、たちまち「戦後復興のシンボル」となった。
しかし、大相撲の元関脇の力道山が、北朝鮮生まれの本名・金信洛であることを知る人はほとんどいなかった。本人が終生秘していたからだ。
『力道山未亡人』(小学館)は、そんなスーパーヒーローに21歳で嫁ぎ、半年後に力道山が刺されて死亡したため、五つの会社と莫大な負債を継いだ未亡人、田中敬子の波乱の半生を描いた労作である。
著者の細田さんは敬子夫人のことを、日本航空で客室乗務員の同期だったという作家の故・安部譲二氏から聞き、興味を抱いた。
なぜ、独身をつらぬいたのか?
―― 興味を抱いた点はどこでしたか?
「22歳で未亡人になった後、60年以上独身でいたことですね。通常なら再婚しますよ。きっといろんな事情があったんだろうな、と思いました。そんな事情を知りたかった」
―― 冒頭、友人のパーティー会場から移動し、78歳で亡くなったアントニオ猪木の遺体と対面し、死んだ夫を想起します。猪木こそ力道山の後継者と敬子さんが考えていたからですが、ジャイアント馬場はともかく、猪木は敬子さんが窮地にあった時に彼女を助けていませんよね?
「いや、馬場も助けていません。馬場が敬子さんを全日本プロレスの役員に就任させたのは、敬子さん保管のチャンピオン・ベルトが欲しかっただけ。利用したんです。猪木も直接彼女を助けてはいませんが、敬子さんと気性が合ったのは猪木の方だったように思います。猪木は晩年、何度か彼女と会って旧交を温めています」
田中敬子は1941年、横浜市に生まれた。小6で神奈川県代表の健康優良児。高2で横浜開港百年記念英語論文の特等賞。19歳で260人に1人の難関を突破して日本航空スチュワーデス。幼少期から聡明であり、死亡通知の後で生還を果たした父親(茅ヶ崎警察署長)同様に、強運の持ち主だった。
―― 野心的ビジネスマンでもあった力道山が敬子さんと結婚したのは、ビジネスのパートナーとして充分な知性があり、強運のパワー・スポットにもあやかりたかったから?
「そうだと思います。国際線スチュワーデスなので海外事情に通じ、英語もペラペラですからね。それだけでも頼もしい存在でした。五つある会社のうち、一つくらい彼女に預けてもいいと思っていたのでは。それに……」
―― それに?
「書いた後で気付いたんですが、敬子さんは166センチで当時としてはとても大柄な女性、お尻も立派。力道山としては、自分によく似た大きな体の子どもが欲しかったんだと思います。これも大きな理由でしょう」
本書には、力道山が涙を流す場面が2度出てくる。最初は田中敬子が結婚を承諾した時。「2人でおいおい泣いた」とある。2度目は、力道山が朝鮮出自を告白した時。彼女は「いい人ならどこで生まれようと関係ありません」と答え、力道山は大粒の涙を流した。
―― 力道山の琴線に触れたわけですね?
「力道山の激しい上昇志向と旺盛な事業欲は、長年差別されてきた裏返しかも知れません」
有名人となった力道山は朝鮮半島情勢に積極的に関わろうとした。金日成にベンツを贈呈し、政府の特使として韓国へと渡った。南北統一を「悲願」とした力道山は、1964年の東京五輪をその契機に、と考えていたのだ。