2025年12月5日(金)

オトナの教養 週末の一冊

2025年2月2日

―― でも、五輪前年の63年12月に亡くなった。その後の朝鮮半島情勢は、力道山が願っていたのと逆の方向へと進みましたよね?

「ええ。北朝鮮選手団は直前で五輪参加をボイコットしたし、力道山を支援していた政治家の大野伴睦や右翼の児玉誉士夫、町井久之らは韓国単独の国交正常化を望み、1965年には日韓基本条約が締結されます」

―― ということは、63年12月に力道山が住吉連合系のヤクザに刺されたのは、朝鮮半島情勢を巡って力道山の存在を邪魔と感じた右翼の政治勢力による関与があった?

「さぁ、それは分かりません。あったかもしれないし、なかったのかもしれない。力道山は東声会寄りだったので、住吉連合対東声会の代理戦争という見方もあります。いずれにしろ力道山の突然の死亡はそれだけで本1冊になるほどの謎だらけの事件。私は今回、現場となったナイトクラブのオーナーだった山本信太郎さんの視点で“その時”を描きました」

 山本氏によると、先に来ていたヤクザの村田某に緊張感は窺えなかった。来店した力道山は泥酔状態であり、一行は7、8人。次の場面はトイレ前の狭い通路でもみ合っていた2人。力道山が村田を倒して上に乗ったが、突然はね上げられた。下腹部を刺されていたのだ……。山本氏はあくまで偶発的な事件だった、と言うのである。

 敬子夫人はこの件を、「いくら考えても結論が出ないので考えない」と決めたのであった。

 22歳で身重の未亡人となった敬子は、リキエンタープライズや日本プロレス興業など五つの会社の経営を引き継ぎ、相模湖畔のレジャーランド開発等の負債8億円(現・約30億円)を背負い、内縁の妻との遺児3人(短大生、高校生、中学生)の面倒をも見ることになった。

 困難を極めたのは負債や相続税などの金銭問題。門下生のレスラーらに利用されたり騙されたりを繰り返し、すべての土地や資産を手放しながら予期せぬ人びとの支援も受け、「焦燥と混乱」の20年間を経て、41歳でようやく完済に至ったのだ。

“私なら何とかできる!”という自負心

―― 敬子さんは難題に直面しても堂々と向き合い、逃げなかった。これはやはり「夫の霊に報いる」という亡夫への愛情のせい?

「それもあるでしょうが、ビジネスに暗くても非常に頭の回転の速い人ですからね。“私なら何とかできる!”という自負心や矜持もあったのではないかと思います。やや過信だったかもしれませんが」

 一人娘の息子(力道山の孫)が、高校野球のエース(身長186センチ!)から大手商社員になるのを見届けた敬子夫人は、今年84歳。

 現在も週2回、プロレス・グッズの女性店員として「小遣い稼ぎのために」働いている。

―― 戦後の興行界の裏表を見てきた力道山未亡人も今や悠々自適の暮らし?

「生活は安定しているようですよ。歩くには杖が必要ですが、飲みに行ったりカラオケしたり、ゴルフを楽しんだり。今でも力道山絡みのイベントや講演会に呼ばれていますしね」

 細田さんの差し向けた明るいライトにより、希代の「歴史の証人」に再びスポットが当たり、そしてまた静かに舞台裾に後退しようとしているのであろう。

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