80年代の記憶への意識を
何よりも重要なのは、今回の第二次トランプ政権の政策はその全てが有権者の「強い現状不満」に応えるという単一の目的で動いているということだ。社会の予想を上回る速度と規模で変化を実現していく。これが現時点のトランプ政権の姿勢であり、その意気込みは強く、また有権者の支持もある。このことを軽視してはならない。
したがって、この関税交渉に関しても、実務的というよりもより強い印象を有権者に与えたいという政治的動機が非常に強いと考えるべきだ。ちなみに、関税交渉によりアメリカに製造業を回帰させるというスローガンについては、その100%が現役世代への雇用確保という実務的動機から来ているわけではない。
例えば、トランプ氏と同世代の、今は引退して公的年金と積み立て年金などで生活している世代の場合、特にラストベルトと言われる北部や中部の諸州では、製造業の衰退には複雑な思いを抱いている。それは、自分がかつて人生を捧げた製造業が消滅したことにより、自分の人生が全否定されたという痛みである。これに、80年代に日本車が怒涛のように押し寄せて品質と価格と燃費でデトロイトなどを衰退に追いやった記憶が重なっている。
日本の現在からすれば、40年以上前の過去形の出来事だが、トランプ氏の支持者の中には自分の人生の名誉がかかった問題と感じている層がある。だからこそ、中国は別として、日本が交渉の1番手に選ばれているという危機感は必要だ。
現在の一人当たり国内総生産(GDP)の衰退に苦しむ日本経済にとってみれば、理不尽としか言いようがないが、一方でラストベルトの引退世代の「過去形の名誉」という問題は彼らなりに真剣なテーマである。そして、トランプ氏はこうした情念を政治的な運動に転換するのが非常に得意である。
この点を踏まえると、赤沢大臣は次のことに留意するのが良いだろう。それは、現在形ではなく80年代の記憶を意識して動くということだ。
デジタル赤字への反論をしたいのは理解できるし正しいが、今はその時ではない。過剰なまでに現地生産を進めた自動車産業にとって、さらに譲歩を重ねれば自国のGDP寄与は限りなくゼロになるが、それでも現時点では何らかの「お土産」を持っていく必要がある。
一方でコメをはじめとする農業の市場開放も同じだ。今、コメの市場開放をすれば、本物のジャポニカ米は海外からの引き合いに流れ、反対に食味の劣る中粒米(カルローズなど)が大量に日本に入ってくる。つまり、他でもない日本人の食卓にジャポニカ米が用意されないという文化的危機に陥るかもしれない。けれども、コメというかつて日米摩擦において象徴的な意味を持った産品に関して譲歩するのであれば、相手方には政治的効果を与えることはできる。
このように多少理不尽であろうと、問題の建て方がやや過去形に属していようが、80年代の通商摩擦を遠い記憶として意識しつつ、象徴的な「モノにおける譲歩」を何点か用意することは効果があると考えられる。
いずれにしても、自動車にせよ、コメにせよ要求を全面的に呑むというのは、日本の国益、独立国としての矜持として不可能だし不必要だ。けれども、何らかの象徴的な合意を演出することは効果があり、また大局から見て必要ということだ。
