「おもしろくて、為になる」
『キング』が果たした役割
今年はラジオ放送が始まって100年という節目の年だが、『キング』創刊も同じ年の1925年である。
大日本雄弁会講談社(現・講談社)創業者の野間清治が「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」と銘打ち、創刊した。
『キング』の果たした役割について、佐藤氏はこう評価する。
「『キング』は、小説、論説、小話、マンガ、時事解説から映画・芸能などの雑多な情報を盛り込み、家族内でも安心して回し読みされた。一部の知識人からは、その内容について批判はあったが、『キング』を読むことで、性別、年齢、階層、地域も異なる多くの大衆が、国民的教養を共有したような気分になれ、国民国家に『参加』している安心感と満足感を得ることもできた。
しかも『キング』は、ラジオ受信契約数よりも早く100万部の大台に達し、『大衆の国民化』を推進した日本で最初のメディアであった」
『キング』はテレビ放送開始から4年後の57年、その使命を終え、終刊した。言い換えれば『キング』の役割がテレビに移行したと考えても良いだろう。
だが、現代は〝共通言語が喪失した状態〟になりつつあり、『キング』やテレビが果たしたような、「国民国家に参加している」という感覚が得られにくい時代でもある。
こうした状況をさらに複雑にしているのは、現代の時代性が、1920年代から30年代にかけての「戦間期」と多くの点で類似していることである。日本近現代史が専門で帝京大学学術顧問の筒井清忠氏は「現代は、第一次世界大戦後のワイマール共和国末期に似つつあり、深刻な状況である」と警鐘を鳴らす。
世界で最も民主的な憲法を持ちながらも、言論の自由や議会制民主主義という「自由民主主義」を否定する「全体主義」が台頭したワイマール共和国末期と現代とのアナロジーについて、小誌ではこれまで繰り返し指摘してきたが、いよいよ現実味を帯び始めている。筒井氏は言う。
「政党による街頭パフォーマンスにその兆候が見て取れる。かつてワイマール共和国では、ナチス、ドイツ共産党ともに『暴力組織』を持ち、激しく対立した。白昼の街頭で暴力闘争が堂々と繰り広げられ、大衆の耳目を集め引き寄せていた。日本では現状、政党間の暴力沙汰はないものの、候補者の演説を妨害したり、選挙カーを追尾して拡声器で罵声を浴びせるなど、街頭活動がパフォーマンス化し、過激化している。昨年の東京都知事選・兵庫県知事選でも類似の現象が見られた。
かつて安倍晋三元首相は2017年の東京都議選の応援演説中、聴衆からの批判的なヤジに『こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない』と強い口調で応じたことがあったが、あのような対立が続けば、今後、政党やそれに煽られた大衆の暴力沙汰に発展する可能性は否定できない」
さらに、社会の中で孤立した個人は、大集団に絡めとられやすいという大衆社会の特色が、いま再び強まっている点も見逃してはならない。
「大衆社会論を改めて見直す必要がある。大正から昭和初期は、前近代から大衆社会へと移行し始めた時代であり、多くの人々が地方から都会へ出た。また、近代社会は憲法によって個人の権利や尊厳が認められ、自由を得て様々なことにチャレンジできるようになった反面、自己責任も大きくなった。
しかし、家族や親戚、隣近所などとの紐帯が弱まっているため、成功しなければ個人は孤立し、不安になる(個人の原子化)。そうした個人に、救いの手を差し伸べるのが1人のカリスマがいる大集団である。
つまり、原子化した個人は、大集団に統合されやすい面を持っている。この大衆社会の特徴は今でも変わらず、SNSが発達した現代は、大集団にとって、ますます有利な時代になっている」(筒井氏)
