中間集団の再興へ
マスメディアはどうあるべきか
一筋縄ではいかないが、いま必要なのは、個人が大集団に絡めとられないようにするため、間に存在する職場や組合、町内会といった「中間集団」の存在を強化することであろう。もちろん家庭も重要な存在の一つになり得る。
「共通言語や共通意識、顔が見える関係が失われたことが、現代の最大の危機であり、この状況をいかに回復させるか。そのためには、マスメディアが画一的ではない多様かつ良質な意見やものの見方、考え方をできるだけ人々に伝え、中間集団の再興を促していく必要がある」(同)
前出の佐藤氏も「インターネットが基軸メディアになっても、新聞・雑誌・テレビの存在が消えてなくなるわけではない。紙の新聞は『日刊の年代記』ともいわれ、ウェブ記事と違い、書かれた事実は容易に書き換えができない特徴を持つ。テレビは初期の頃『文化の水道』といわれ、スイッチをひねれば水道のように安全な情報を得られたという信頼感があった」と言い、こう続ける。
「国民国家とは言い換えれば福祉国家であり、一般の人々が安心して暮らせるセーフティーネットがある社会。だが、グローバル化すればするほど、競争は激しくなり、『国民の流民化』が起こり得る。それはつまり、日本国民の誰もが自明のことと思っている日本国の『国民』から国際社会の『私民』になってしまうことを意味している」
「自由民主主義」を守るには、法の支配を基盤とし、言論と表現の自由が担保された社会でなければならない。これは、マスメディアに加え、マンガやアニメにも当てはまる。
余談だが、その重要性を伝えてくれるマンガがある。『有害都市』(筒井哲也、集英社)──。2020年、オリンピックを目前に控えた東京を舞台に、青少年の健全な育成を阻害する有害図書を全国の書店から一掃するため『通称・健全図書法』が国会で可決され、〝浄化作戦〟が実施される様子を描いた作品だ。
基本的にマンガは娯楽の一つだが、社会のあるべき姿やものの見方を我々に与えてくれるという側面もある。一つの意見ではなく、多様な意見が世の中で共有される手段として、マンガやアニメが有益であることは論を俟たない。ただ、社会の基盤を支えるマスメディアの重要性も忘れるべきではない。大事なことは両者がバランスよく〝共存する社会〟を目指すことであり、それは我々の選択次第で良い方向にも、悪い方向にも進みうるということだ。
多くの国民が社会の「情報」や「課題」を共有でき、マスメディアとサブカルチャーが共存することで、真に多様性と多元性のある社会を実現していかなければならない。
