震災がらみでは、18年10月、桜田義孝五輪担当相(当時)が、東日本大震災被災地出身の議員のパーティーで、「復興以上に大事だ」として、その議員の名を挙げて持ち上げた。たちまち与野党、世論の批判を浴び、職を追われた。桜田発言にある 「復興以上に大事」という意味は不明だが、名前を出された議員こそ迷惑だったろう。
いずれの発言も、被災地の人々、復興に当たる関係者を傷つける発言であり、あれだけの被害をどう感じているのかという疑念を抱かせた。
信念に基づく厄介な確信犯型
失言に罪の軽重があるはずもないが、無知や認識不足による放言より深刻な結果を招きかねないのは確信犯型だろう。すでに触れた江藤農水省の父、故隆美長官の「植民地御時代にはいいことした」という発言はまさにそれだろう。
最近では5月3日、自民党の西田昌司参院議員による発言(沖縄・那覇でのシンポジウム)もこれにあたる。西田氏は、ひめゆりの塔(沖縄県糸満市)について「ひどい」「説明では日本軍がきてひめゆり隊が死んだ、アメリカが入ってきて沖縄が解放されたという文脈だ」などと批判した。地元はそうした記述はないなどと指摘し、西田氏は謝罪、自民党総裁の石破首相も玉城デニー知事に陳謝する騒ぎとなった。
長崎の原爆投下をめぐって、第1次安倍内閣時代の07年6月、初代防衛大臣の職を追われた久間章夫氏の発言も同じ構図だ。氏は千葉県内の大学での講演で、「あれで戦争が終わったという頭の整理で、いま、しょうがないなと思っている」と述べ、被爆者団体を中心に批判、抗議を招いた。
歴史認識をめぐる失言が飛び出せば、日本政府は近隣諸国への配慮から「善処」せざるを得ないが、虚言やお粗末さからの発言とは異なり、信念からでた発言が少なくない。国内でも、それに同調する人たちからの反発がでるから、為政者にとっては、深刻、厄介な問題だろう。
失言大臣の首だけ取れば満足か
筆者は失言政治家の肩を持ったり、同情したりするつもりはない。しかし、今回の江藤発言をとってみても、野党はひたすら〝首〟を打ち取ることだけに血道をあげていたのではなかったか。
立憲民主党の野田佳彦代表は江藤辞任をうけて「民のかまどから煙がみえなくなってきていることへの危機感がない」(5月21日、国会内)と得意気に記者団に語った。
「民のかまどがみえない」――。その通りだろう。しかし、立民に堂々と江藤氏の非を鳴らす資格があるか。
江藤発言の陰に隠れてしまったが、同党の玄葉光一郎衆院副議長による内閣不信任案発言は、それと同じ程度、いや、より悪質だろう。江藤発言と同じ日、玄葉氏は立憲民主党福島県連の定期大会に出席し、「内閣不信任決議が提出されれば、かなりの確率で可決される」と述べた。
衆参の議長、副議長は慣例で会派を離脱しているが、玄葉発言は、その公正・中立性を守るべき人の言葉とはとうてい思えない。
弁舌は政治家の生命であり、武器でもある。しかし、それによって名声を傷つけ、政治生命を失ってしまうこともある。与党、野党を問わず、政治家は肝に銘じるべきだろう。
