後にヤクルトの監督として「長嶋・巨人」と名勝負を繰り広げる野村克也氏は生前、人気で劣るパ・リーグで戦後初の三冠王に輝くなど活躍し、長嶋さんをヒマワリに、自らを月見草にたとえた。華のある長嶋さんは人気、実力で、プロ野球を国民的娯楽へと押し上げた。
通算2186試合に出場し、打率・305、2471安打、444本塁打、1522打点をマークし、5度のMVP、6度の首位打者、2度の本塁打王に5回の打点王を獲得。記録にも記憶にも印象的な17年間の現役生活にピリオドを打った74年の引退セレモニーでは、「私は今日、引退をいたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」との名せりふを残してユニホームを脱いだ。
数々の「ドラマ」を生んだ監督時代
93年に2度目の監督に復帰すると、前年秋のドラフト会議で自らくじを引き当てた高卒ルーキーの松井秀喜氏を熱血指導し、球界を代表する長距離打者へと導いた。翌94年に「国民的行事」と自ら盛り上げたのが、同率首位の中日と最終戦でリーグ優勝が決まる「10・8」。大一番を前に「勝つ!勝つ!勝つ!」とナインを鼓舞して頂点に立った。この年は監督として初の日本一も経験した。
96年には最大11.5差をひっくり返して、自ら名付けた「メークドラマ」を達成した。落合博満氏や清原和博氏ら他球団の4番をフリーエージェント(FA)で次々と補強する手法は賛否分かれたが、話題の中心は常に巨人であり、長嶋さんだった。
2000年に監督として最後の日本シリーズで、当時ダイエー(現ソフトバンク)との「ON対決」を制し、01年を最後に勇退した。04年アテネ五輪は、初めてオールプロで臨む日本代表の指揮を執る予定だったが、直前の3月に脳梗塞を発症した。右半身にマヒが残り、現場復帰はならなかった。
それでも懸命なリハビリに励み、たびたび東京ドームを観戦に訪れた。13年には松井氏とともに国民栄誉賞が授与され、新型コロナウイルス禍の21年東京五輪の開会式では、王氏、松井氏とともに国立競技場での聖火ランナーを務めた。
先輩記者から聞いた数々のエピソード
40代の筆者は長嶋さんの現役時代はもちろん、監督時代にも取材経験がなかった。プロ野球担当の駆け出しのころ、当時在籍していた産経新聞の先輩記者が「プロ野球の世界では様々な憶測が飛び交うが、地に足を付けて取材をして、過熱報道に流されてはいけない」という助言とともに週刊誌の切り取り記事のコピーを見せてくれた。
98年に巻き起こった長嶋さんの退任騒動を扱った新聞各紙の報道を批評した内容だった。契約最終年で2年連続でのV逸が決定的だった長嶋氏に代わり、西武の黄金時代を築いた巨人OBの森祇晶氏らの名前が後任に浮上していた。長嶋さん退任へ報道の流れが傾いていく中、長嶋さんからも名前を覚えられていた番記者の先輩は、先走ることなく丹念な取材でニュースを「飛ばす」ことをしなかったという。
