明らかになる戦時指導者の「なぜ」
NHKスペシャルは『高精細スペシャル ヨーロッパ2077日の地獄』が描き出した、第二次世界大戦の発端もまた、私たちが高校の「世界史」で学んだ域を出ない。「なぜ」には十分に応えられない。
ヴェルサイユ条約の結果、ドイツの港湾都市として繫栄していたダンツィヒ(グダニスク)は、国際連盟によって自由都市となった。この都市とポーランド領を結んでいたのは「ポーランド回廊」と呼ばれた。住民の多くはドイツ人であるため、ナチスはポーランドに対してドイツ領にすることを求めた。
ナチスはこれ以前にドイツ人が多かった、チェコに無血入城を図っておりダンツィヒの奪還も容易であると考えていた。しかし、39年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、同国と相互保障を結んでいたイギリスとフランスが、ドイツに対して反抗する形となって第二次世界大戦が勃発した。41年には、ドイツがソ連に侵攻。日本が英米とアジアの植民地に侵攻して戦域は拡大していった。
イギリスのチャーチル内閣が、ドイツの空爆を避けるために地下につくった「WAR ROOM」を訪れたことがある。戦略室の壁に、シナイ半島を中心とするアジアの地図と欧州の地図が並んでいた。
戦後にチャーチルが執筆した『第二次世界大戦』(kindle合本版、佐藤亮一訳・河出書房新社)は、ノーベル文学賞を受賞した。チャーチルはもともと新聞記者であり、本書はノンフィクションの体裁をとってはいるが、「文学」それも連合軍の勝利のプロパガンダである。
英米は日本を敗戦に追い込むのに短期間ですむと考えていたと思われる。チャーチルは、マレー沖に停泊して開戦の折には日本を攻めるつもりだったプリンス・オブ・ウェールズが日本軍の空爆によって沈められたことについて、驚きをもって執筆している。
チャーチルが米国の参戦を執拗にうながし、かつ事前に戦艦の貸与を連絡したルーズベルト大統領との電話会談もまた、この地下につくった「WAR ROOM」といわれている。
戦後80年にして、第二次世界大戦を指導したチャーチルとルーズベルに関して、「なぜ」の要因が新たに明らかになりつつある。参戦をしない公約を掲げて大統領に当選を果たしたルーズベルトだったが、ニューディール政策は失敗に終わって失業者は増加していた。
日米交渉が決裂した要因となった要求を盛り込んだ「ハルノート」がある。国務長官のコーデル・ハルの周辺には、ソ連の国際的な共産党の組織であるコミンテルンのメンバーがいたことが明らかになっている。
脇道にそれるが、『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(早坂隆、文春新書)では、日本陸軍の中枢にいた永田周辺にもコミンテルンからの資金が入っていたという疑惑が指摘されている。
チャーチルとルーズベルトについては、第二次世界大戦を勝利に導いた英雄としての姿とは別に、戦後にチャーチルが総選挙に負けた要因として、国民から「戦争屋」と揶揄されたように、その実体を明らかにするジャーナリズムも台頭している。
