政権の夢果たし、凋落した社会党
本格的な連立政権は、93(平成5)年の細川護熙内閣まで待たなければならなかった。
この数年前、リクルート社が大量の未公開株を政財官界やメディア有力者に贈った贈収賄事件が発覚したのを機に政治改革の必要性が叫ばれたが、宮沢喜一内閣の取組みが不十分だったことから93(平成5)年、内閣不信任案が可決された。
その時の総選挙で自民が敗北、野党は日本新党(当時)の細川代表を首相とする8党派の連立政権を誕生させた。細川内閣は、現在の政治活動の指針となる政治改革関連法を成立させるなど成果をあげたが、その後は一気に求心力を失い、翌年、総辞職に追い込まれた。
連立によって、党の衰退を招いたケースとしては、「自社さ」政権が忘れられない。
細川後継の羽田孜内閣が短命に終わった後、政権復帰をめざす自民党は、細川内閣を離脱していた社会党の村山富市氏を担ぎ、新党さきがけを加えた連立内閣を強引に作りあげた。55年体制で宿敵同士だった自民、社会両党の握手だけに国民を驚かせた。
政権に就いたからには、現実政策を取らざるを得ず、村山首相は日米安保条約堅持、自衛隊合憲へと従来の基本政策をあっさり放擲(ほうてき)して変更。これが根強い支持者の失望、離反を招いてしまった。
長期低落は現在まで続き、同党の後身、社会民主党は衆参あわせてわずか3人という小党に転落したままだ。
政権獲得は55年体制にあって果たせ得なかった夢の実現だったが、そのことが逆に凋落につながるというのは皮肉というほかはなかった。
野党の一部には連立へ警戒感
連立参加は各党にとって、権力の中枢に参画する機会である反面、大きなリスクを伴う。各党が慎重な姿勢を崩していないのは、こうした経緯を踏まえたことが一因になっているのかもしれない。
実際、日本維新の会の藤田文武共同代表は「自民党に安易に取り込まれた政党は数年以内になくなっている」(8月19日の記者会見)という「歴史的事実」に」言及し、警戒感を隠さない。
連立枠組みをめぐっては、すでにさまざまな発言がなされている。
