「解党的出直し」というには、興趣に欠ける自民党の総裁選がまもなくスタートする。昨年と同じ顔ぶれ、清新さに欠けるとはいえ、次の総理大臣が誰になるかだけでなく、連立政権の枠組み、野党との協力関係がどうなるかも大きな論点になる。
連立政権の過去の構図を見ると、政界地図に大きな転換、変革をもたらす契機になったのがほとんどだった。連立参加が災いして衰退していった野党も少なくない。
〝影の有権者〟として与党の党首選びへ大きな役どころを与えられた野党各党にとっては銘記すべき教訓だ。
総裁選候補者として名前が挙がっている5氏のうち、茂木敏充元幹事長は早々と記者会見で政見を明らかにし、小林鷹之元経済安全保障相、小泉進次郎農林水産相、林芳正官房長官は連休明けに表明した。高市早苗前経済安全保障相が週内に会見した後、22日の告示をはさんで選挙戦が本格化する。
かつては忌まわしい響き
次の総理・総裁は誰か、現時点では神のみぞ知るのだが、連立の枠組みがどうなるのかによっても、日本の政治のあり方が左右される。「連立政権」は、今でこそ欧州など各国の主流だが、「自民一強」が続いた55年体制の日本では忌まわしい響きをもって受け止められ、長く実現をみなかった。
1947(昭和22)年から翌年にかけて、日本社会党(当時)の片山哲委員長、民主党(同)の芦田均総裁がそれぞれ率いる3党の政権が誕生したが、政局の不安定、スキャンダルに足を取られて短期で瓦解してしまった。「連立」は、人々が飢え、住むところも着るものにも事欠く終戦直後の混乱、不安な時代を象徴する言葉でもあった。
政治家も国民も避けてきた「連立政権」が久々に登場したのは戦後も40年近くたった83(昭和58)年だった。
ロッキード事件で収賄罪に問われた田中角栄元首相の一審有罪判決直後の総選挙で中曽根康弘首相率いる自民党は過半数割れの敗北。新自由クラブ(当時)と連立を組み、田川誠一代表を自治相として入閣させた。
新自由クラブは、ロッキード事件が発覚し76(昭和51)年に自民党衆院議員だった河野洋平(後、自民党総裁、衆院議長)ら6人が離党して結成した保守・中道政党だった。結成直後の総選挙で17人が当選、ブームを起こすが、その後は一桁と低迷、中曽根内閣で連立の一翼を担ったものの党勢は回復せず、86(昭和61)年の衆参同日選挙での自民党大勝を機に連立解消、一時的な数合わせに利用されただけの格好となった。同年に解党を余儀なくされ、所属議員のほとんどは自民党に復党した。
