飢えの恐怖と隣り合わせ
80年前の日本の現実
若い方々には想像できないことかもしれませんが、私たちは戦時中から戦後にかけて、「米穀通帳」というものを持たされていました。食糧管理法が制定された1942年以降のことです。食管法によって、コメや麦などの主要農産物は、農家の自家用米を除き、政府が全量を買い上げることになりました。この法律のもと、1世帯につき1通の米穀通帳が発給されたのです。米穀通帳には1日当たりのコメの配給量が記入され、配給日には通帳を持って、印鑑を押印してもらうのと引き換えに、コメを購入することができました。
現在でも人気の飲食店に並ぶ人の列を見かけることはありますが、テーブルの席が空けば、必ず、食べられます。しかし、当時の配給は何時間並ぶかも分からず、そもそも配給されるかどうかも不確かでした。予定されていた配給が行われない「欠配」や、配給日そのものが遅れる「遅配」は日常茶飯事であり、毎日が飢えの恐怖と隣り合わせでした。
ある時、私の母は配給を取りに行ったまま数時間も帰宅せず、疲れ切った顔でようやく帰宅すると着物の袂から、カンパンを10個取り出してテーブルの上に置き「今日はおコメの配給がなかったの。代わりにこれだけ」と悲しげに言い、子どもはただ、顔を見合わせるだけでした。
食管法の下、当時の人々は、近郊の農村に食料を求め、「買い出し列車」はいつもすし詰め状態でした。
そうした中、世の中を揺るがす大事件が起きます。東京地方裁判所判事であった山口良忠さんが47年10月、栄養失調で亡くなったのです。山口さんは、法の番人として、判事として、配給だけの生活を続けた結果、命を落としました。山口さんの死は「配給だけでは生きられない」現実を私たちに突きつけました。
日々の食事にも、どこかピリピリとした空気が漂っていました。私が大学生だった頃、学生寮の朝食は、ほんのわずかなおかゆだけでした。味噌汁をすくうための昔ながらの金色のお玉(金杓子)で、おかゆをよそうのですが、すくった後、お玉の裏側にも、わずかに米粒が残るのです。その様子をじーっと見続け、一粒でも多く食べたい寮生たちは、「ちゃんと裏についた米粒も入れて」と、互いに指摘し合うほどでした。
また、子どもが小学校登校時の路上で、持参した弁当を見知らぬ大人に奪われるという事件が起こりました。弁当をもともと持ってこられない生徒もいたため、小・中学校の授業が午前と午後の2部授業になった学校も少なくありませんでした。
ある開業医は「お金はいらん。診察してもらいたかったら、お金の代わりにコメか芋か食べるものを持ってこい」と言って診察を拒否しました。子どもの病気を診てもらえなかった親は、戦争が終わった後も、その開業医を長年恨んでいました。
これらが、80年前の日本の偽らざる現実でした。食べることは生きることであり、逆もまた真なりです。その中でも、コメは日本の伝統的な主食で、多様なおかずを取り合わせることができる長寿健康食として今や世界に普及しています。忙しい日本人の飽食がコンビニ弁当にとってかわられ、健康への配慮が軽視されているのではないか。いや、さらに何らかの事態が起こることで、「飽食の時代」を謳歌している日本人はいつでも当時の状態に陥る可能性があることを認識しておくべきです。
戦後日本は高度経済成長を遂げ、先進国の仲間入りを果たしました。飢餓のない社会によって、国民の健康と長寿が大きく向上し、鉄鋼や造船、家電、自動車などの輸出産業が次々と躍進し、世界を代表する企業が誕生しました。
しかし、その繁栄の陰で日本の農業の衰退が始まり、外貨獲得を最優先する政策のもと、輸出産業の保護・育成が推し進められました。
