一方で、農業は「コストばかりかかる非効率な産業」とみなされ、「食料は輸入すればよい」という考え方が政策の根底に据えられていったのです。これらは、一部の経済界や政治家、とりわけ男性中心の意思決定層に根強く存在し、日本の「工業重視」「農業軽視」の流れを強めていったと言えます。
農業・工業・商業
国家にはバランスが必要
こうした風潮に警鐘を鳴らした人物がいます。戦後を代表する経済史学者で「大塚史学」の名前で知られた大塚久雄氏です。
大塚氏は著書『国民経済』(弘文堂。現在は講談社学術文庫)の中で、18世紀の英国が「農業の繁栄を出発点とし、次々に現れてくるさまざまな工業が(そして商業が)『自然な』形に組みあわされ、互に広く深い国内市場をつくりだしながら、内に充実しつつ成長するという産業構造」であったと指摘しました。一方、オランダは、「貿易は『ただ買っては売り、取り寄せては送り出す』という中継取引だけで、国民の生活や生産活動とは、基本的には無関係におこなわれている」と述べました。
両国の産業構造は、1世紀ほど前までは類似していたにもかかわらず、英国は勃興し、オランダは衰退の道を歩みました。その歴史的要因を、大塚氏は鋭く見抜いたのです。
彼の考察に通底することは、国家の繁栄には農業・工業・商業のいずれかに偏ることなく、調和・バランスが不可欠であるという視点です。
外需に依存するだけではなく、内需もしっかりと〝耕す〟ことが、持続可能な経済の基盤であるということでしょう。こう言うと、「内需は頭打ちなのだから外需に頼るしかない」という反論が聞こえてきそうです。だからこそ、日本を代表する輸出企業は、自動車など、一つのものにこだわらず、様々な社会課題の解決に向けた製品・商品づくりに挑戦し、内需を〝耕す〟ことも必要なのではないでしょうか。こうした考えを現代に当てはめた時、日本がなすべきことは言わずもがな。そう感じるのは、私だけではないはずです。
1989年に上梓した拙著『豊かさとは何か』(岩波新書)でも記しましたが、私がかつて滞在した欧州では、「都市と農村の結婚」といわれるように、農業は工業のパートナーであり、対立概念ではありませんでした。自然を相手に生産する人の思考や意識が、工業とはちがう多様な発想を生み出すことを認め、農業の持つ価値を尊重していました。
私事になりますが、農業経済学者であった夫の衆三(2023年に逝去)も、大塚氏と同様、農業を蔑ろにしたまま発展し続ける日本経済の行く末に深い懸念を抱き、警鐘を鳴らし続けました。
今では、学校給食がなくなる夏休みに、家でおなかをすかせた子どもたちは、ボランティアの子ども食堂で食事をしています。また、これまで中産階級だった親が炊き出しの列に並んで無料配食を受けています。その度に私は複雑な気持ちになります。「飽食の時代」であっても、格差はますます大きくなっているからです。戦争体験と強烈な飢えを経験した者として、同じようなことを子どもたちにはさせたくありません。
「富を貯めるとは各個人の蔵にモノをためることではなく、大地を豊饒に、自然を豊かにし、自然の中に富を貯めることだ」─。かつて、アイヌの人々はこう言いました。真摯に耳を傾けるべき言葉でしょう。
「令和の米騒動」を教訓にし、私たちは食べることの意味や農業の価値、コメと日本人のあり方を改めて考え直す必要があります。(談)
