想像を超える感動を
もたらせるか
もう一つ、失われたのは、スティーブンソンの『宝島』です。
『宝島』の少年ジムが、地図を手に未知の海へ漕ぎ出すように、『スター・ウォーズ』のルークは砂漠の惑星タトゥイーンから、C-3POとR2-D2と一緒に広大な銀河へ踏み出します。かつて、外の世界はまだ見ぬ冒険で満ちていました。
私は1996年に大学に入り、初めてバックパッカーで香港に行きました。空港はまだ啓徳(カイタク)にあって、着陸には九龍の高層ビルをかすめるスリリングなアプローチをしていた頃です。街に出ると、無数の看板の下で、フェイ・ウォンがクランベリーズの曲を中国語で歌い、蘭桂坊(ランカイフォン)は東洋と西洋が混じり合う世界で一番クールな盛り場に見えました。
ガイドブックを片手に旅行した当時に比べて、現在はネットであらかたの情報が事前に手に入ります。でもそのことが何か物足りなさとなっていることも事実です。どこに行っても想像の範囲内を超えない。「宝島」を見つけるような心の揺さぶりはなくなり、外への関心が退行している自分を感じます。
どうすればかつてのように心を揺さぶられる体験ができるのか──。私はインターネットとAIの違いはまさにここにあると考えています。
インターネットは無限の情報をもたらしてくれるように見えて、何か全てが想像の範囲内であるように感じてしまいます。一方で、AIは、人間の想像力の「限界」を超えるところにその面白さがあります。
有名な例を挙げると、AI(Alpha Go)が人間の囲碁の世界チャンピオンを倒した決め手は、「ムーブ37」(37手目)という従来の定石では人間が思いもよらないような打ち手でした。そしてそれ以降、ムーブ37に触発されて、人間の囲碁名人も次々に新たな定石を考え始める契機になりました。こうした発展の先にある未来のAIは、香港での感動のような、心を揺さぶる体験をもたらしてくれるかもしれません。
「大きな物語」に話を戻しましょう。冷戦終了とインターネットの出現以降、失われたかに見える「大きな物語」をAIはどうして取り戻すことになるのでしょうか。
ChatGPTなどの現在のAIと個人のインタラクションが密になることで得られる「救い」は、実は社会的な共感から切り離された、個人に閉じたものともいえるでしょう。
人間は社会と切り離されては生きていけない─―。そのことは、個人主義の行き過ぎを経験したヨーロッパで、信仰の再評価をめぐる議論として繰り返し語られてきました。
さらに重要なのは、AIが前提としている価値観です。AIは膨大な相関関係を捉えることはできても、「なぜそうなのか」という因果関係を説明できません。なぜなら、今日の機械学習ベースのAIは基本的には膨大なデータから「パターン」を学習しているに過ぎないからです。高度な因果的推論を行っているように見えるAIも、過去の事例をベースにパターンマッチングを行っているだけなのです。
