日本のまちと京都のまちが
イタリアと異なること
では、井上さんは、これからの京都はどうあってほしいと思っているのだろうか。
「大学時代、建築を学びましたが、その道には進まなかった。それでも、興味はあるんです。イタリアのフィレンツェに行くと、何百年も前の市庁舎があり、まちを歩けば、マキャベリが歩いた石畳が残っている。
京都はどうでしょう。かつて坂本龍馬が歩いた同じまちを歩いているとはとても思えないですよね。歴史を尊ぶという意味で、日本はどのまちもイタリアに到底及びません。
第二次世界大戦で、ローマに初めて空爆があった、1943年7月19日のことです。翌日、イタリアの参謀本部は、国王と掛け合って、ムッソリーニの逮捕と休戦を決めます。なぜでしょうか。彼らは、ローマ帝国から続くこのまちが、爆弾で燃えることに耐えられなかった。『そんなことをされるなら、負ける方がましだ』というわけです。つまり、建築そのものが戦争への抑止力になっていたんです。
ところが、大日本帝国時代の東京は3年4カ月、空襲されても持ちこたえた。これが私には悲しい。守るべき建築文化がなかったことを如実に示しています。
京都でも戦争の影響はありました。御池通、堀川通、五条通は道路の幅がすごく広い。45年に、防空対策のために火除け地として、広げたからです。地図で上から見れば、今あげた三つの通りが『匚(はこがまえ)』を構成しています。つまり、祇園祭の地区を防火帯でとりまき守っているようにも見える。火除け地を通すなら室町通でも、錦でもいいはずです。だけど、祇園祭の地区を囲むようにした。大日本帝国陸軍も、祇園祭には忖度したんやね。こうやって、あの洛中のまちは守られたわけです。
にもかかわらず、70年代ぐらいから、洛中の旦那衆たちは、町家を壊して立体駐車場や雑居ビル、マンションに変えていったわけです。その方が実入りもいいですからね。これはフィレンツェやヴェニスでは考えらません。あの大日本帝国陸軍が忖度してくれたことに対して、京都のまちは自らの手でそれを変えてしまったのです」
ちょっぴり残念な気持ちになる。ただし、井上さんは、京都の持つ独特な力についてこう言った。
「企業の経営者たちにしてみると、この立地はやはりいいんでしょうね。いろんな国から人を招くにしても、隣の大阪よりも〝吸引力〟がある。そういう京都の吸引力は昨今、より強くなっていると感じます。かつて大阪に本社のあった会社の多くが東京に本社を移しましたが、京都の会社が東京に移るという話はあまり聞きません。つまり、京都企業はこの恵まれた立地を武器にしているような気がするんです。
まぁ、会議が終わった後に芸妓さんの出る宴があれば、エキゾティックで喜ばれるということもあるでしょう。余談ですが、芸妓さんになったアメリカの文化人類学者もいます。人類学の論文としてまとめたいようです。京都の花街は将来的にお金持ちのインバウンドをはじめ、そのような外国人によって支えられるのかもしれません」
『京都ぎらい』の井上さんによる京都論は実に奥深い。
それにしても井上さんの言う、京都の持つ吸引力とはどのようなものなのか、分かるようで分からない。ならば、地元の人に話を聞くのが一番である。そこで、小誌取材班は、京都に根を張る各界の先駆者たちに、時代が大きく変化する中、日々、何を考え、京都の持つ魅力や変わらぬ価値観を守るために実践していることなどについてインタビューを行った。古くて新しい都のデザインを、じっくり考えてみたい。
