日本外交、自主外交の系譜
高市首相が「安倍チルドレン」としてトランプとの緊密関係を演出したことは一つの選択だ。しかしその先に何を求めてのことだろうか。
「世界の真ん中にいるアメリカの傍らに位置取りする」ことだけが自己目的化しているとは思いたくない。筆者はそれを戦後日本外交が求めてきた自主外交の系譜の中で考えてみたい。
日本の自主外交とは、歴代政権でアジアの中心国としての日本の地位向上に求められたのだ。戦後一敗地にまみれた日本は対米コンプレックスの中で復興のため臥薪嘗胆の日々であった。戦中派の人々にとって日米関係の親密化は、「痛みを伴ったリアリズム」であったはずだ。
経済重視・軽武装を唱えて親米政策をめざした「吉田ドクトリン」と称せられる外交は、吉田茂自身にとって当面の策で、次なる日本の真の自立外交への布石であったと思う。そしてその自立の模索は、戦後歴代政権のもうひとつの重要な共通課題である「対(東)アジア政策」にあった。
吉田茂首相退陣後、政権を握った鳩山一郎内閣はソ連に接近、同時に同政権の外務大臣であり親米派であった重光葵外務大臣はスエズ危機の際に、米・アラブ仲裁介入しようとした。それは時期尚早の感はあったが、日本外交の根底にある気概を示した一面でもあった。
岸信介首相は日米安保条約改正と日米関係強化の一方で、東南アジア開発基金創設、アジア外交を国是として含む外交三原則を決定、レバノン内戦では米軍撤退と監視団強化を提唱した。その後高度経済成長による復興が確固となってきた池田隼人政権は日米欧三極の一角を占める国としての「ナショナル・プライド」を標榜し、アジアにおける独自の役割を求めて東南アジアを歴訪、マレーシアの紛争介入、アジアの東部経済回廊(EEC)創設にまで言及した。
そして日米安保自動延長と沖縄返還で親米色をさらに強めた佐藤栄作内閣は台湾・南ベトナムを含む東南アジア12カ国を訪問していた。そして田中角栄首相は日中友好と東アジアを歴訪した。
1976年に誕生した福田赳夫政権は「福田ドクトリン」で有名になった東アジア構想を標榜。軍事大国の否定、心と心の触れ合いによる相互依存を中心としたASEAN諸国との連帯を提唱し、アジアの国としての日本の存在感を高めることに成功したが、この構想は米国の警戒感を逆に生んだ。その後大平正芳首相の時代には総合安保とアジア太平洋構想をその外交看板にしようとした。
「アジアの昇龍」外交への期待
そして80年代日本は自他ともに認める「アジアの昇龍」となった。ベトナム戦争の挫折、ドルの低落は米国の衰退を大きく世界に印象付けた。その一方で72年に国内総生産(GDP)で世界第2位に飛翔した日本は世界の脅威の的となった。米国エズラボーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』や石原慎太郎・盛田昭夫『NOと言える日本』は世界中で翻訳された。
モデルスキーの「ヘゲモニーサイクル論」は100年周期で世界の覇権国(中心的パワー)が交代してきたのが近代世界史だとするならば、米国衰退の後、20世紀終盤以後の覇権国(世界のリーダー)は日本か、中国であろうと論じた。
