2025年12月14日(日)

世界の記述

2025年11月25日

 トランプ大統領の今回の一連の外遊のトップは習近平国家主席との会談だったが、両国は相互関税ではその実施に1年留保をつけて妥協した。それはトランプ対中政策の転換ともとられている。だとすれば日本の対中政策も同様だ。

歴史的な「親米自立」

 「自立」と称しただけで「反米」と同義語に解釈されるのは、そのような世論構造が構築されているからだ。筆者はあえて「親米自立」だと称している。奇をてらってのことと思われがちだが、ここで論じたように戦後の一連の「自主外交」の流れに見られる。

 ナショナリストの高市首相は安倍首相時代の親米ナショナリズムを踏襲していくことになろうが、それが防衛協力だけではなく、どこまで独自の自主外交や外交的自立の独自色を出せるのか。筆者はそこに期待したい。

 そこでの「自立」は決して対立を意味しない。「自立」とは自由裁量の範囲を少しでも大きく留保していくことである。

 そのために確固とした見識を持ち、説得力を持った議論をどこまでしていくことができるのか。外交の力量が試されることになる。独自の国際認識と目標を持ち、自前のロジックと言葉で議論できる能力が必要とされよう。

 戦後の日本外交を考えるうえで、日米関係が最重要であり続け、今もそうであることは疑念の余地はない。ただ、こうした一連の日本の日米同盟強化の名の下に防衛強化がきちんと議論のないままに、対中国・北朝鮮脅威を大義名分として独り歩きしているような不安をもつのは筆者ばかりであろうか。

 日米防衛協力の強化はどこまで、どのような形で必要なのか。それは防衛費増加と同義語なのか。そして日本国民に防衛に臨む気概がどこまで醸成されているのか。あるいは防衛という事態に至らない事前の政策についての議論と交渉は十分に尽くされているのか。真の意味での「力による備え」の前の議論として「対話による外交」の議論はどこまで詰められているのか。

 ぼんやりとした不安を感じるのは筆者ばかりであろうか。それは高市政権になってからことさらに思うことではない。実は一連の日本外交の歴史を通して言えることである。

 最近よく思い出す言葉は、19世紀ドイツ軍事戦略家クラウゼヴィッツの「戦争とは政治(外交)の延長である」という歴史の箴言だ。今こそ外交の時代だ。外交の喪失の時代であってはならない。「咲き誇れる外交」とはそういう意味においてはではないのか。

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