「保守派の女神」から「日本の首相」へ
ここ1年に実施された2回の国政選挙結果が物語るように、岩盤支持層といわれた保守層から見放され、党勢弱体化が食い止められないばかりか、ヌエのように振る舞う岸田・石破の両政権による3年余の間に逼塞を余儀なくされていた感のある自民党保守派から、「安倍政治の後継者」を掲げて登場した高市早苗が「保守派の女神」として大いに迎えられたことは大方が認めるところだろう。
また共産党政権の横暴極まる振る舞いを強く批判し、岸田・石破の両政権が繰り返す醜態極まる対中姿勢――「遺憾」の表明以外に打つ手なし――に憤激の度を募らせるばかりの保守派オピニオン・リーダーたちからするなら、台湾の民進党政権に接近する一方で習近平政権に対して一歩も退かない姿勢をみせる高市首相の登場に意をいよいよ強くしたことは想像に難くない。
であればこそ、彼らは高市首相の「存立危機事態」発言に両手を挙げて賛成し、返す刀で「(高市首相の)汚い首は斬ってやる」などとSNSで発信した薛剣在大阪中国総領事を「外交官にあるまじき暴挙。横暴が過ぎる。ペルソナ・ノン・グラータに指定して即刻国外追放せよ」と激高する。
だが現在の台湾の国情に思いを致しつつ日本を取り巻く経済・軍事を軸とする内外環境の現状を冷静に判断するなら、「台湾有事」に関連して必然的に発生することになる「存立危機事態」に対する公式見解を、高市首相が内外に向けて明らかにすることは必ずしも賢明な政治姿勢とはいえないはずだ。
いま立ち止まって考えるべきは、日本国の舵取りを務める首相の地位に就いたという厳然たる事実である。昨日までの「保守派の女神」をいち早く封印し、日本が直面する内外環境全体を一歩下がって俯瞰し、首相としての熟慮を重ねたうえでの発言、冷静な振る舞いこそが、彼女に強く求められているのではないか。
日本の禍機
11月7日の国会における高市首相と岡田議員の論戦なるものを聞いていて頭に浮かんだのは、今から80年前の8月15日に到った日本における政治と軍事、政治家と軍人の複雑に絡み合った関係である。
その発端をいつの時点に置くかといった類の議論はひとまず措くとして、長い日中間の紛争・戦争の全体像を振り返るなら、中国側が安定した中央政権を持続的に維持できず、これに西欧列強の錯綜する利害が重なり、結果として社会の混乱が続くこととなったことは確かではある。だが、そうであったにしても、職掌からして政治や外交とは一線を画すべき立場の軍人が政治に容喙(ようかい)し、過度に政治的な振る舞いをみせる、言い換えるなら政治が政治として機能しなかったが事情が日本側にあったことも事実――日本の禍機――だった。
