当時の新法典整備において中心的役割を果たした法学者・梅謙次郎は、「『支那の慣習』に従って妻は生家の姓をなのるという風習(夫婦別姓)が日本でも広まっているが、欧州では昔から妻は夫の姓を称しており(夫婦同姓)[筆者注:この事実認識は正確でない]、これが日本の慣習にもかなう」として、夫婦同姓を主張した。この方針が明治民法で採用されて、今日に至っている。
つまり、一言でいうと「脱亜入欧」。当時衰退しかけていた中国より、勢いづく欧州に倣えという国家戦略のもと、日本もタイも「夫婦同姓」の欧州型の制度を採用したのだ。
しかし、そもそも、中国には以前より姓があったにもかかわらず、どうして日本やタイでは姓や苗字が一般的でなかったのだろうか。
双系制社会と父系制社会
「疑似父系化」への道
いきなり大風呂敷で恐縮だが、上の地図を見てほしい。ユーラシア大陸の中央部には「父系制」地域が広がり、その両端の日本から東南アジアや欧州のあたりに「双系制」の地域がある。
「父系制」とは祖先から末広がりに連なる男系のつながりを意味し、それにより形成されるピラミッド型の親族集団を父系氏族などという。このタイプの典型がユーラシア大陸に位置する中国であり、同じ父系氏族のメンバーは同じ姓を持つ。冒頭で紹介したように、ラーマ6世が「中国型の姓は大きな親族集団を作る」と言ったのは、そういう意味だった。
これに対して「双系制」とは、男女のどちらのつながりでも親族関係をたどる制度である。例えば、「オジ」「オバ」「イトコ」という日本語の親族名称は父方・母方を問わず同じように使うことができる。これは日本の元来の親族関係が双系的だという証拠である。日本のように双系的な社会は東南アジアに多く存在しており、冒頭に述べたようにタイの庶民が個人名しか持たなかったのはそのためであった。
欧州の親族関係も実は双系的である。だから女王が頻繁に登場するし、かの有名な「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の「ダ・ヴィンチ」は姓ではなく、「ヴィンチ村出身の」という意味であるように、姓を持たない名前が使われていた。
フランスの歴史人口学者であるエマニュエル・トッドは『家族システムの起源』(藤原書店)という大著で、要約すれば左記のようなことを述べている。
──歴史的には双系的親族とそれに埋め込まれた核家族がセットになった社会の方が古く、ユーラシア大陸全域に広がっていた。ところが、大陸の中央部に中国のような父系的親族と大家族がセットになった社会が発生し、大文明を発展させることにより、前者は大陸の隅っこに押しやられた。父系的な大文明に圧迫された日本やタイのような双系的社会は、様々な程度に父系的変容を被っていった──。


