数年前のNHK朝ドラ『あさが来た』は、明治の女性実業家広岡浅子をモデルとしていた。浅子は、成瀬仁蔵がめざした日本女子大学(当時・日本女子大学校)設立を支援して奔走するわけだが、この日本初の女子大学設立運動にはドラマに描かれなかった重要人物がいる。それが土倉庄三郎だ。
実際、日本女子大学の設立に、より深く関わったのは庄三郎なのだ。成瀬が最初に大学設立の相談を持ちかけたのは、郷里の先輩だった内海忠勝大阪府知事。その次が庄三郎だった。そして庄三郎が、広岡浅子に会うよう紹介したのである。
寄付金の返金保証
また広岡家と同額の5000円を寄付している。さらに浅子とともに寄付金の返金保証をした。大学設立が成らなかった場合は、2人がほかの寄付者に寄付金を返すと確約したのである。これによって募金に弾みがついたとされる。
そして1901年に日本女子大学が開校した際、庄三郎は評議員として名を連ねていたし、学長室には長く庄三郎の肖像画が飾られていたという。もちろん広岡浅子の尽力は間違いないが、庄三郎の存在が忘れられているのは残念である。
庄三郎が成瀬と出会ったのは、開校より20年も前になる。1881年に庄三郎は自らの娘と親戚の女児ら7人を大阪の梅花女学校に入学させる。その時に同校で教師を勤めていたのが成瀬だったのだ。ちなみに同年、庄三郎は京都の新島襄を訪ねて息子ら3人を同志社英学校に入学させている。そしてどちらの学校にも多額の寄付を行った。
驚くのは、預けた子どもらの年齢は10歳以下だったことだ。幼子を教育のために親元を離れて寄宿させたのだ。なお梅花女学校では幼子を面倒見られる体制になかったため、娘たちは後に同志社女学校に転校することになった。