2025年12月14日(日)

Wedge REPORT

2025年12月14日

 NHKの大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』が14日に最終回を迎える。18世紀半ばの江戸で、メディア王として時代を切り開いていった横浜流星演じる蔦屋重三郎が繰り出すアイデアや取り組みは現代社会にも示唆を与える。言論統制や江戸幕府の権力争いの影響を受けながら、切り抜けていく様も見応えであった。

NHK ONE ホームページより

 “蔦重”は激動の時代をどう生き抜き、新たなものを生み出していったのか。人気記事5本からその時代を振り返っていきたい。

〈目次〉

・べらぼうに夢を追った蔦屋重三郎、そのゆかりの地を歩く ─吉原周辺─(2025年8月9日)

・平賀源内に『吉原細見』の序文を依頼した蔦重の狙い|江戸の仕掛人 蔦屋重三郎(1)(2025年8月9日)

・蔦重はどうやって歌麿を育てたか?|江戸の仕掛人 蔦屋重三郎(3)(2025年8月11日)

・大河ドラマ「べらぼう」の舞台・吉原のマネー事情、妓楼オープンと営業資金の仕組みとは?(2025年5月10日)

・手鎖の刑に沈んだ喜多川歌麿、狂歌を捨てた大田南畝…江戸の出版統制と「べらぼう」蔦屋重三郎を取り巻く戯作者たちの運命(2025年9月28日)

べらぼうに夢を追った蔦屋重三郎、そのゆかりの地を歩く ─吉原周辺─

 緻密な脚本と豪華キャストによる熱演が話題を呼ぶ、横浜流星さん主演の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃の夢噺〜』の舞台である吉原を訪ね、蔦屋重三郎ゆかりのスポットをめぐりました。

 はじめに訪れたのは、蔦屋重三郎が開いた耕書堂を模した観光拠点施設「江戸新吉原耕書堂」。今年の1月に開業したこの施設は、東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅から南東に向かって13分ほど歩いたところにあります。蔦屋重三郎の版元印を染め抜いた藍色の暖簾が目印です。

江戸新吉原耕書堂

 入口の右手には、吉原の成り立ちや蔦重との関わりを記したパネルと「吉原今昔図」が展示されています。明治時代から関東大震災、東京大空襲、公娼廃止を経て、この街がどのように変遷してきたかを見て取ることができます……

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平賀源内に『吉原細見』の序文を依頼した蔦重の狙い|江戸の仕掛人 蔦屋重三郎(1)

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、安田顕の熱演が視聴者の記憶に深く刻まれた平賀源内。そんな源内が、吉原のガイドブック『吉原細見』の序文に寄せた「吉原遊女論」とは、どのようなものだったのでしょうか。ここで詳しくおさらいしてみましょう。『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

 吉原のガイドブック『吉原細見』は、通常、正月と7月の2回発行された。

寛政7(1795)年刊行の『吉原細見』(国立国会図書館)

「細見嗚呼御江戸」という序題がつけられた『吉原細見』が売り出された年月は、序文の最後の行に「午(うま)のはつはる 福内鬼外戯作」と記され、奥付に「安永三甲午歳」とあることから、1774(安永3)年の正月と知れる。福内鬼外は、源内の戯号の1つである……

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蔦重はどうやって歌麿を育てたか?|江戸の仕掛人 蔦屋重三郎(3)

 若くて貧乏な荒削りの画工歌麿に秘められた類いまれな才能を見抜いた蔦重は、自宅に居候させ、美人を描かせたら右に出る者がいない浮世絵師に育てた。蔦重は、どう仕掛けたのか。大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」をもっと楽しむための一冊『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

「六大浮世絵師」といえば、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、安藤広重を指すが、蔦重は後発の書肆であるにもかかわらず、春信を除いたすべての画家と関わっていた点が出色で、特に蔦重が活躍した江戸中期から後期にかけて関わった「3大浮世絵師」を活躍順に挙げると、春信、清長、歌麿ということになる。

 春信は、多色摺の木版画「錦絵」の創始者として知られ、繊細で流麗な絵を描いた明和期(1764~1772年)を代表する浮世絵師で、清長が天明期を代表する浮世絵師なら、歌麿は寛政期以降を代表する浮世絵師だった……

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大河ドラマ「べらぼう」の舞台・吉原のマネー事情、妓楼オープンと営業資金の仕組みとは?

(歌川広重「東都名所 吉原夜桜の図」 Purchase, Joseph Pulitzer Bequest, 1918) 写真を拡大

 話題の蔦重こと蔦屋重三郎。NHK大河ドラマ「べらぼう」の舞台は花のお江戸の幻影城・新吉原。虚構の合間を束の間の真実が交差する中、1日で1000両の売上をあげたというマネーランドだ。

 人権などという概念が無かった当時のこの街の商売が現代では許されないのは当然だが、日本の生活史・文化史を語る上で避けて通れないテーマであるのも事実。戦国武将同様、マネー面を通してこのテーマに愛情をもって接していきたい。

 では早速、江戸時代の新吉原に入っていくとしようか。浅草の浅草寺の北、隅田川から山谷堀に出て「日本堤」などと呼ばれる堤防から「衣紋坂」を下ると、「五十間道」と呼ばれるS字カーブの道があり、両側には物売りや茶屋などのたて出しの屋(たてだしのや。この場合、吉原のメインから離れた所に建てられた町屋)が並ぶ。その内の一軒、道の東側9軒目がドラマで蔦屋重三郎の義理の兄とされている次郎兵衛さんが営むお店(おたな)があった……

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手鎖の刑に沈んだ喜多川歌麿、狂歌を捨てた大田南畝…江戸の出版統制と「べらぼう」蔦屋重三郎を取り巻く戯作者たちの運命

喜多川歌麿「ぽっぴんを吹く娘」1792-93 大判錦絵 フリッカー・コレクション 東京国立博物館など(…trialsanderrors, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

 文化元年(1804)の初秋のことである。

 日光例幣使街道の宿駅、栃木の豪商として知られた釜善こと善野伊兵衛の屋敷に、隠棲していた人気浮世絵師の喜多川歌麿を訪ねて江戸から3人の来客があった。

 戯作仲間だった山東京伝、十返舎一九、そして栄松斎長喜である。

 〈みなさん、ようこそお出で下さいました。ありがとう。いや、こんどの手錠50日はまったくこたえましたよ。京伝さん、あなたが私と同じ刑をお受けなさったのは寛政3年でしたね。まだお若かったから回復なさった。私はこの年だから、すっかり弱ってしまいましたよ。ま、この年でつかまらなかったのを喜ぶべきかもしれませんが〉

 これは美術史家の新関公子さんが『歌麿の生涯』(展望社)のなかで、想像力豊かに描いている老境の歌麿の一景である。

 寛政の改革のもとで険しさを増した江戸の出版統制は、権力への風刺や華やかな時代風俗を描いた浮世絵ばかりでなく、地口(ぢぐち)と呼ばれる社会風刺の文藝を掲載した黄表紙などの出版物にもおよんだ。売れっ子だった歌麿ら浮世絵師のほか、山東京伝ら戯作者たち、さらにはその版元として彼らを支えた蔦重こと蔦屋重三郎らにも手鎖(手錠)の刑や過料、財産の没収などの重い処分が繰り返された……

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