植民地時代から脈々と受け継がれたインフォーマル経済
現在世界最大のインフォーマル経済大国であるインドは、イギリス植民地支配前の時代には、農業以外にカースト制におけるジャーティ(職業集団)が組織化して多様な手工業(織物、金属加工など)の職能文化がありました。その後、イギリスによる植民地化(18世紀から20世紀半ば)によってイギリスへの原料供給国となることを強要され、多様な職能文化は縮小を余儀なくされます。元職人や労働者の多くが小作農やマイクロビジネス(小規模小売)に追いやられてしまいました。その結果、1947年の独立直前の頃には、人口の約85%が村落に住み、生活を農業に依存していまして、そのほとんどが低技術の零細農業であり非正規労働者でした。労働人口の90%以上が、非正規の農業かその他の部門での非正規労働に従事するという圧倒的にインフォーマル経済が基盤の社会になっていたということになります。
独立後は、政府は社会主義に触発された国家主導の開発モデルを採用し、重工業、インフラ、公共部門(製鉄所、鉄道、銀行など)に投資し、社会保障のある安定した正規雇用を成長する都市労働者を創出し、伝統的農業への依存を減らすことを望んだものの、残念ながらインフォーマル経済が支配的であり続けました。
この要因は複数あります。一つは、社会全体の正規化の速度よりも人口増加が速く、カースト制による世代を超えた職業固定化が強かったことです。
そしてまた農業においては、全国的に土地改革が遅れて土地の再分配に失敗し、長年にわたって低成長に留まってしまった側面があります。特殊なケースでは、1960年代から70年代の「緑の革命(Green Revolution)」で全国一様ではないものの、農業生産性が(※幸か不幸か)高くなり食糧自給が飛躍的に向上したということもあったのですが、こうした地域でも、農民が「農業を放棄するほどではないが、さほど裕福でもない状態」となっただけで、むしろ農業放棄が減って農村から都市への労働力流入(と正規化)が若干緩慢になってしまったこともあると言われます。いずれにしても、主に資本を持たない小作農による農業が引き続き全労働者の最大シェアを占めていました。
中国の改革開放とは違う道を進んでしまったインド
1970年代以降は農村部から一気に増加傾向となった都市部への移住者も、都市部での非正規職(人力車引き、露天商、建設業の日雇い労働者など)の拡大につながっただけでした。都市部の事業主は、前述の厳格な規定(労働者100人以上の工場での解雇には政府の承認が必要など)により、法的な複雑さを避けるために小規模に留まるか、非正規雇用に頼ったのが主な原因です。
この点は、中国では約10年間の文化大革命で都市部も農村部も大疲弊し大量の死者を出した後に、1970年代末から「改革開放」のもとで、生産性の低い農村部から大量の労働者が都市部や新設開発区に流入し「世界の工場」となったことと対照的です。中国では同時期にフォーマルな国有企業と強力な外資誘致による工場(鉱工業)という受け皿があったことが大きな違いです。
人間万事塞翁が馬と言いますか、毛沢東のクレイジーな政治暴走が国をあらゆる層で疲弊させてしまった反省がゆえに、中共は鄧小平指導部のもとで国外に向けて頭を地面につくほど下げ、国外資本家の靴を舐め、外資とその技術を国内に積極誘致するなど「韜光養晦モード」にチェンジし、中国第二次産業の爆発的発展があったわけですが、インドはそれとは異なったコースを進んでしまったようです。
