「不介入」と「強さ」の間に揺れる
まず、イランの問題は1979年の革命以降、武闘路線を放棄したパレスチナ多数派であるファタファに変わって、パレスチナ解放機構(PLO)の武闘路線を継承したレバノンのヒズボラと、ガザのハマスを支援し続けたことにある。この両者の動きは、反米テロとも連携しており、米国としては直接の脅威とみなしてきた。
そんな中で、イランが核武装に至ればこれは米国にとっても脅威のはずであり、政権はこの点に関してはあまり疑わずに攻撃に至っていたと思われる。けれども、この論理は、限りなくブッシュ政権の「反テロ戦争」の正当化と重なってくる。そして、2016年に、そして24年にも2回にわたってドナルド・トランプ氏を合衆国大統領に選んだ民意は、この「反テロ戦争」に代表される「介入主義」に反対するトランプ氏の選挙運動に喝采を送っていたのであった。
政権としては、選挙時に自分たちが訴えたこの「非介入主義」がどこまで民意の中に浸透しているのか、手探りの状況であるようだ。一方でアメリカの保守主義の中には、強いアメリカという理念が確かにあるからだ。レーガンはこれによって冷戦に勝利し、ブッシュ親子が中東で存在感を見せようとしたのも、そのためという認識がある。
アメリカは確かに旧大陸のトラブルには距離を置くことで、新大陸ならではの栄誉ある孤立を享受する、そんな孤立主義を保守の旗印としている。けれども同じアメリカが、いざという時は圧倒的な強さを見せれば、内外ともに屈服し追随する、そのような「強さ」もまた保守主義の一部という考え方がある。
つまり、戦後の、特にアイゼンハワー以降のアメリカ保守というのは、「栄誉ある孤立」を志向する部分と、「世界の中における圧倒的な強いアメリカ」を誇示したいという二重性を抱えている。トランプ主義においては、大統領自身は「より極端な形でこの二重性を追求」することが自身の求心力になると考えていたのであろう。
そうした姿勢からは、「実際に戦火を交えれば」世論は自分たちを支持してくれるという計算があったのは間違いない。にもかかわらず、現状としては現在進行形の、しかも自国に有利に展開している(ように見える)イランでの戦争に対して、保守世論の一部は「徹底した孤立」「不介入」という原則にこだわって反対をしてくる。その世論の真意に対して、政権の側には明らかに困惑の色が見える。
わかっていないキリスト教保守主義の疑問
2つ目は宗教の問題だ。特にトランプ政権とカトリック、福音派の間には、微妙なすきま風が見られる。ローマ法王との舌戦や、イエス像を交えた寓意画の炎上というような現象そのものは表層的なものかもしれない。けれども、ヘグセス国防長官が映画のセリフを聖句と誤解した問題なども含めて、キリスト教世界全体との間に文化的な齟齬が起き始めている。
こちらに関しては、政権の側に甘さがあると言わざるを得ない。福音派もカトリックも、根本的には禁欲主義に基づいた真剣な宗教である。カトリックにはラテン系が多く、数字的には民主党支持が多いかもしれないが、真剣な信仰共同体であり、米国がキリスト教国であることの一部を構成している。
