福井県出身の映画人として、まずあげなければならない人物は宇野重吉(1914~88年)である。元々は新劇の俳優であり、戦後長い間、劇団民芸の指導者として、舞台の演出から劇団で作る映画の監督まで勤めてきたのであるが、劇団民芸自体が映画にこぞって出演した作品も多く、宇野は映画人としても大きな存在であった。
今は福江市になっている、かつての足羽群足羽町太田の出身。農家の出だが4歳のとき父が亡くなって母と福井に出る。中学3年で学資が続かず、中退して働く。やがて兄を頼って上京、日本大学の演劇科に進学するが、しかし築地小劇場のプロレタリア演劇に夢中になって大学は中退。昭和7(1932)年に日本プロレタリア演劇研究所に入った。いわゆる二枚目ではなく、ごつごつした顔で親しみやすさもあり、元気のいい愛すべき労働者を演ずるのにうってつけで、左翼演劇で頭角を現わす。そして同時に映画界でも左派の作品に良く出ている。
そして戦後。民主化の波に乗って一気に準スター的な人気者になる。「我が生涯の輝ける日」(1948年)の武骨な正義派の記者で映画でも注目され、そのシナリオを書いた新藤兼人は「愛妻物語」(1951年)、「第五福竜丸」(1959年)その他、以後生涯にわたって、その重要な監督作品の主役に宇野を起用した。素朴な好人物の庶民的な役が多く「月夜の傘」(1955年)をその代表作にあげたい。
晩年に癌を自覚してから、宇野重吉一座というのぼりを立てて旅芝居をやった。死ぬときは舞台で、 と言う心意気だった。