民政長官の地位にあった後藤新平は前途有望な人材を積極的に登用し、機会と責任を与えることで、人材の育成を図った。建築や土木に限らず、台湾の気候や風土、民情に見合った新しいアイデアを出させ、これらを大胆に進めていく。後藤の離任後も、台湾は若き人材にとって自らの才能を発揮できる魅力的な場所となっていた。
一例を挙げると、台南の目抜き通りだった台南銀座(現在の中正路)には戦前から電柱がなく、空を覆う電線もなかった。これは電線を地下に埋設するというもので、都市景観の整備に用いられた。これを提案・実行したのは梅澤捨次郎という技師だった。梅澤は戦後に人生を振り返り、「学校を出て、東京で建築の世界に入っていたら、ここまでの成長はなかっただろう」と語り、若くして台湾で得た経験が自身を大きく育てたと回想している。
戦時下でも進化していた
日本の建築技術
戦時下であっても技術の革新と進化は進められていた。耐震構造に関する研究はもちろんのこと、社会インフラを整備していく中においても、資材の節約や作業の効率化、衛生管理を意識した都市計画などが推進されていた。
建築については、この時期に日本独自のスタイルが誕生している。たとえば、戦時下によく見られた国防色は空襲を想定し、壁面を深緑色や黄土色としたもの。上空からの視認を避け、迷彩と防眩効果を狙い、目立たない色合いで建物全体をまとめるものだった。さらに意図的に傷をつけ、陽ざしを影で相殺するスクラッチタイルも昭和期に多用されるようになった。
戦時体制下の日本でのみ見られた建築様式もある。帝冠様式は1930年前後から終戦までの間、大日本帝国勢力圏内だけに存在したもので、箱型の建築母体を組み合わせ、そこに和風の瓦屋根をのせて東洋趣味を重ねたスタイル。これは戦時下、国威発揚を狙ったもので、日本では名古屋市役所の本庁舎や九段会館(旧軍人会館)、神奈川県庁舎などにも見られる。
台湾でも帝国南進の拠点となっていた高雄には、今も高雄駅の旧駅舎や高雄市立歴史博物館(旧高雄市役所)など、帝冠様式の建物を見ることができる。特に高雄駅は現在、地下化されており、モダンなデザインの駅となっているが、旧駅舎はモニュメントとして残されており、シンボルとなっている。
