損失は医療費のみに留まらない。これらの症状に関連する病気休暇により推定4200万労働日が失われ、雇用主には約52億ポンド(8700億円)のコストが発生した。
症状に苦しむ患者の生活の質(QOL)低下に伴うコストは、約93億ポンド(1兆5000億円)を超えると推定される。合計すると、1年間で約2兆9000億円にのぼる大損失である。
「MUS」から「PPS」へ、用語変更で「ゴミ箱」化のリスク
80年以降、こうした原因不明の身体症状について「医学的に説明のつかない症状(medically unexplained symptoms; MUS)」という言葉が使われるようになった。MUSをテーマとした臨床研究も増加し、発表論文数は17年にピークを迎えた。
しかし、登場後30年を過ぎて、複雑な問題を包含する原因不明の身体症状を表現するのにはたしてMUSが適切な名称か、について議論する論文が発表されるようになった。
曰く「否定的なレッテルである」「医療専門職と研究者だけが使用する名称だ」「症状の原因・持続期間・重症度・重要性の洞察に欠ける」「心と身体を分ける『心身二元論』を助長する」等々
興味深いことに、原因不明の身体症状に対してどんな名称を好むか選択肢を患者に尋ねた研究が15年に発表された。
結果は「Persistent Physical Symptoms(持続的な身体症状; PPS)」が20%、「Functional Symptoms(機能性症状)」が17%、Medically Unexplained Symptoms(医学的に説明のつかない症状; MUS)」が15%、「Body Distress Disorder(身体苦痛症)」が13%、「Complex Physical Symptoms(複雑な身体症状)」が5%、そして24% が「特に好みなし」だった。
もともと一般的用語としても使われていたPPSは、初期にはMUSと併記されたり互換性のある言葉として使われていたが、徐々にMUSの課題を引き継いだ主要な研究のテーマとしての使用が増加した。特に21年にはコロナ禍を反映したPPSという文脈での研究が急増した。
主要な疾病分類の領域では、米国精神医学会が13年改訂の精神疾患・障害の分類と診断基準マニュアルで「身体症状症(Somatic Symptom Disorder)」を、世界保健機関(WHO)が22年改訂の国際疾病分類で「身体的苦痛症(Bodily Distress Disorder)」を、それぞれ関連する既存の分類を再編して導入した。これらは、身体症状への過剰な思考・感情・行動パターンを重視した分類であるが、医学的に原因を説明できるか否かという二分法は、臨床的有用性が低いとして廃止された。
しかし、こうした名称の変更(ラベルの貼り替え)が患者の問題の本質的な解決に寄与しているのだろうか、という懸念が、医療側のみならず患者側からも聞こえてきた。医師が安易に「原因不明」というカテゴリーと決めつけることへの患者からの怒りの表明もある。期待していた説明やケアが中途半端に切り上げられたと患者が受け取れば、患者-医師間の信頼関係が崩壊するリスクさえある。
持続的な原因不明の身体症状には、①現在の検査法では診断に至らない疾患(検査法の進歩により今後診断可能になるかもしれない)、②希少疾患(7000種類以上ありその約7割は遺伝的異常に関連すると推定されているが多くは未知である)、③既知の病態の非定型的な発現、④精神疾患も含めた心理社会的要因、⑤これらの要因の複合的なもの、など多岐にわたる可能性がある。
そのため、患者の貴重な経験がPPSなどの(医師にとって)便利なラベルのゴミ箱に放り込まれることで、将来解明されるかもしれない真の病因が隠蔽されてしまうと警鐘を鳴らす人もいる。
B.D.さんが登場した前回の記事にも書いたように、家庭医のアプローチは、①病理学的プロセス(disease「疾患」と呼ぶ)と、②心身の不調についての患者個人の経験(illness「病気」と呼ぶ)に加えて、③その症状について患者がどう認識し、評価し、対処する(または対処しない)か(illness behaviour「受療行動」と呼ぶ)をバランスよく探ることだ。名称が何であれ、持続的な原因不明の身体症状に対処するのに家庭医は適した立ち位置にいると言える。
「先生は、この原因不明の身体症状に何て名前をつけたいですか」
「そうですね・・・『君の名は』なんてどうでしょう」
「えっ? 猛暑日が続いているけど、先生、大丈夫ですか(笑)」
「患者に起こっていることを第一に尋ねてみるわけです」
「ははは、アプローチは家庭医らしいけど、病名としては分かりにくいですね」
