2026年8月9日(日)

日本人が知っておきたい安全保障レッスン

2026年8月9日

それでも残る違和感の正体

 さて、ここまで読んでスッキリ理解できたということであれば良いが、「まだモヤモヤする」という方もいるだろう。実は、その違和感は正当である。少なくとも二つの点から違和感の正体を説明できるだろう。

 第一に、仕掛ける・仕掛けられるの二元論は非現実的だという点である。歴史上戦争の多くはどちらが「仕掛けた側」か判然とせず、先制攻撃をした国も自らを「仕掛けられた側」、あるいはせいぜい「仕掛けざるを得なかった側」に置き、正当化を試みてきた。前述の説明は教科書的には正しくても、現実はさらに複雑なものである。また、軍事力を増強する行為が、抑止のためなのか侵略のためなのか、外見上は区別がつかないことも状況を複雑にさせている。

 第二に、抑止力が実際に効果を発揮しているか検証できないという点である。一般的な政策、例えば失業者対策や少子化対策は失業率や出生率という数字で効果が測定できる。厳密な因果関係までは立証できなくとも、ある政策によって状況がどう変わったかは観測可能だ。

 一方で、「攻撃そのものを思いとどまらせる」という抑止力は相手の意思に働きかける作用であり、内心についての検証は困難である。さらに、平和を維持するという営み自体、何らかの変化を目指すものではない。「失業率を下げる」「出生率を上げる」という変化ではなく、「何も起こさせない」という現状維持を目的としている。「昨日の平和が今日も維持された」という場合に、それが政策によるものなのか、それとも軍隊などなくとも結果は同じだったのか。この検証はほとんど不可能である。唯一可能なのは不幸にも戦争を仕掛けられた場合だけである。もちろん、この場合は「抑止政策は失敗した」という評価になる。

 「平和のために軍隊を持つ」という際のこの違和感を完全に拭い去ることはできないだろう。これが安全保障政策の難しいところである。割り切った答えには辿り着けず、思考過程で堂々巡りが生じることも稀ではない。ここでは、若干の補足をして本稿を終えたいと思う。

「軍隊」も使い方が肝心

 第一の点、すなわち、自衛の名の下に侵略が行われてきたことをどう捉えるべきかという点については、それは軍隊があることの問題ではなく、軍隊をどう使うかの問題であると指摘できる。つまり、民主国家においては、政治の問題である(これを「政軍関係」と言う。「文民統制(シビリアン・コントロール)」は政軍関係の一形態である)。

 包丁や自動車と同じで、使い方によっては有益にも有害にもなる。軍隊も「使い方」が肝心だということである。また、二元論が雑な議論だとしても、「侵略された場合にどうするか」という問いは依然として残る。世界政府や国連軍が機能しているのならともかく、そうでない以上は自国で対処力(軍隊)を持つ必要があるのではないか。

 第二の点はより難問であるが、現実政治との関係では予算規模に関わる問題であると指摘できる。抑止力の効果が測定不能である以上、「どの程度の軍事力を持てば良いのか」という問いに正面から答えることは難しい。EBPM(根拠に基づく政策立案)の抑止政策への適用も同様である。だが、仮に「持てば持つほど安全だ」というのなら予算は青天井になってしまう。

 防衛費を「GDP比○%」という形で捉える議論は、一見すると〝どんぶり勘定〟にも思えるが、答えのない問いに無理やり答えを与える技法という評価も可能だろう。なお、同じことは「必要最小限度の実力組織」という憲法9条の解釈にも言える。何をもって「必要最小限度」と測るのか。この点については別の機会に触れることにしたい。

 今回は「戦争」や「抑止力」の意味を確認した上で軍隊の存在意義について解説した。次回は「平和」について深堀りして考えてみることにしよう。

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