願いも祈りも届かなかった。死を知った瞬間、必死に心肺蘇生を繰り返した小峯の身体から力が抜けていった。
その瞬間、救命センターのドアが開き、両親がストレッチャーに寝かされている子に駆け寄った。
「お母さんがその子の名前を呼び、叫びながら我が子の亡骸を抱いて号泣していました。その号泣が、その号泣が、僕はたかだか18歳でしたが、それまでの人生経験にはないものだったのです。天を仰ぐような声で……。とても言葉には尽くせない感情が湧きあがってきて、僕も涙があふれ出てきたのです。あの母親の慟哭はいまでも忘れられません」
家族で楽しく過ごしていたはずの夏の海に、どうして生命を奪われなければならないのだろうか。
いま振り返っても、あの日ほど人のはかなさを感じたことはなく、虚しさや悔しさ、悲しさに苛まれ、無力感に打ちひしがれたことはないと小峯は言う。
「若かったから技術があれば溺水から人を救えると思っていました。僕にはそんな慢心のようなものもあったのでしょう……。こんなに悲しいことが二度と起こってはならない。全国で溺死が起きるたびにこの母親の悲しみが繰り返されているのかと思うと、何かしなければいけないという使命感が湧いてきました」
人の死を目の当たりにした衝撃が18歳の小峯の人生を大きく変えてゆく。
技術を備えていながら、
いかにその技術を使わないようにするか
事故の翌年、大学2年生になった小峯は西浜SLSCのキャプテンになった。また、同年オーストラリア政府による「豪日ライフセービング交換プログラム」のメンバーにも選ばれ、水難救助の先進国オーストラリアのライフセービングを学ぶ機会を得た。
オーストラリアのライフセービング協会会長の部屋には、「we want lifesaver who can’t swimming」と書かれた車椅子に乗ったライフセーバーのポスターが飾られていた。
たとえ身体的ハンディキャップがあったとしても、ライフセーバーとして海辺の完全、人命救助の活動に携われることを意味している。