中国の代表的日本論といえば、清末の外交官・黄遵憲の『日本国志』や、蒋介石の右腕として活躍した国民党の大幹部・戴季陶の『日本論』しかなく、これらはいずれも彼らの任務上の関心に基づいて書かれたという限界がある。
そして戦中戦後の日本については、主にルース・ベネディクトの『菊と刀』に依拠するのが習わしのようである。しかしこれとて日本の敗戦直後、米国・西洋からみて理解しがたい日本人の行動様式を、在米日本人への聞き取りなどから定型化したものに過ぎず、必ずしも内在的な日本理解とはいえない。
こうなってしまったのは先述の通り、そもそも中国の日本認識史自体が極めて浅いこと (せいぜい100年+α)、ならびにその短い歴史も政治の荒波に翻弄され、腰を落ち着けて等身大の日本を観察する機会を欠いてきたことによる。
日本は現在の中国認識に漫然とするべきではない
総じて長年来、日本は中国についていろいろ知っている。これに対し中国は、「日本の軍国主義」については何でも知っているつもりであったが、実は何も知らないに等しかった。歴史といい現実といい、相手を説明する知識や能力が著しく低ければ、ハードパワー以前にソフトパワーで敗北している。しかもその日本は依然として「集団主義」であり「軍国主義復活中」に見える。それは恐ろしいことである以上、何としてもこの差を埋めなければならない。
しかし、今から日本を虚心坦懐に知ろうとしても、やはり情報量や認識量の落差はあるし、今後も民主化しない限り(かつ、その民主化の結果反日ナショナリズムが加速せず、日本について自由な言論が認められるようにならない限り)いつでも知日の努力が政治の荒波にかき消される可能性もある。このため、知日・対日コンプレックス・反日の微妙な関係は継続しうる。
講談社『中国の歴史』ブームに関連し、上海の新聞『東方早報』の評論員・黄暁峰氏は次のような痛切なコメントを残した (http://www.caijing.com/cn/ajax/print.html)。
「国内で現在、講談社の歴史書に匹敵するような歴史書を出版できないことから、国内の学術水準が低いと説明することはできない。しかし、より遺憾な点は、出版社・学者・読者いずれの視点からみても、体制と個人の双方ともに現状を変えられないことである。日本の出版社にとっては、これは講談社が出版した外国史の著作に過ぎない。しかしもし、我々が国内の学者を組織して日本通史を出版したところで、(水準が日本の日本史研究に到底及ばないために)日本の出版機構がそれを輸入する可能性がないとしたら、それこそもっとも悲しむべきことである」