筆者も、日本人の期待や反感など先入観から中国をみるのではなく、あくまで中国は中国の論理で動くことをドライに知るべきだと考えるので、このような主張には全く同感である。そして、日本と中国の双方でこのような「作法」が共有されるとき、はじめて真に持続的な共存が成り立つのであって、そうではない方法=うわべや思い込みだけの「友好」、または剥き出しの圧迫は必ず失敗する。
講談社『中国の歴史』が
中国で大ヒットという「事件」
しかし、この境地に至るまでの道は極めて遠い。日本の側にも勿論多くの問題があるが、中国側はとりわけ言論の自由が制約され、日本に関する議論は様々な攻撃にさらされている。中国人の誰もが『騰訊』やその他の開明的なメディアを見ているわけではない。
またそもそも、日本における中国認識の歴史は、中国における日本認識の歴史と比べて圧倒的に長く深い。もちろん、例えば戦前のアジア主義者による日本中心=中国従属論、そして戦後の進歩的知識人による中共賛美など、今から見れば見当違いも甚だしいものも枚挙に暇がないが、少なくとも日本は巨大な西の国家とその文明を冷静に観察しながら自意識を形成してきた長い歴史を持つ。これに対して、圧倒的な「文明」「天下」であった諸帝国は、日本という存在を等身大のものとして捉える経験を欠いてきた。海賊集団「倭寇」や豊臣秀吉のように荒らしに来なければ、絶海の先に浮かぶ日本は朝貢に来なくとも捨て置いて良い、というのが、とくに清代の対日認識の基調であった。
しかし、日清戦争=甲午戦争で日本に敗北を喫したのみならず、欧米日の圧迫の中で「天下」の帝国であることを止め、近代主権国家「中国」として生きて行かなくなければならなくなったとき、「天下の歴史」「皇帝・王朝の歴史」ではない「中国の歴史」を国民に知らしめナショナリズムを創出するためには、日本で歴史上蓄積された「中国史」を直輸入しなければならなかった(梁啓超『中国史叙論』)。したがって、いま中国が称揚する「中国史」とは、日本人が発明したものである。
これだけでも、実は日中両国のソフトパワーは圧倒的に差があることが分かる。これもまた、中国人が日本を知れば知るほど抱くジレンマのもう一つの正体である。
今春、講談社100周年記念出版『中国の歴史』(2004〜2005年に全12巻が発売された) の中国語版が刊行され、日本では各1.5万部程度であったものが中国で10万セット売れたという「事件」が起こった。