「その後の自衛隊の国連平和維持活動(PKO)による海外派遣を見据え、自衛隊が持つ高い自己完結能力を内外に示したいという思いもありました」
ほかにも、当時一般の道民と接点の少なかった自衛隊員にとって、人命救助の訓練は、自分たちの日頃行っている活動が何の役に立っているのか改めて認識する機会となり、士気の向上にもつながったという。
自衛隊退官後の99年には、東京都の災害担当参与に就任し、都でもビッグレスキューを主導した。当時、「装甲車が銀座を走る」などと話題になり、大掛かり過ぎるとの批判も。
「人口密度が高い都市こそ、大災害を想定して一定規模以上の訓練を行わなければ意味がありません。1万人の救援隊の動きを100人の訓練で検証することはできません」
それまでになかった災害救援訓練を実施した志方さんは「ゼロからイチを創り出す」ことを得意とする。
自衛隊の戦闘訓練に「レーザー交戦装置」導入を検証したのも志方さんだ。実弾を使用することなく実戦さながらに行うこの訓練は、今では自衛隊では当たり前の訓練になっている。
在米日本大使館防衛駐在官時代に米陸軍が導入したこの訓練を知った志方さんは、陸自第2師団長を務めた際、旭川の部隊で実証実験を担当し、自衛隊の実戦的訓練に沿うように工夫を加え、正式導入にこぎつけた。
1980年前半の在米日本大使館防衛駐在官時代。制服を着た志方さん(左)(Toshiyuki Shikata)
また、志方さんは陸上幕僚監部人事部長時代に陸曹で構成する組織「曹友会」の設立を発案。陸曹は陸自の隊員のなかで数が最も多い部隊の中核だ。月刊の会誌も発行して、一体感の醸成や地位の向上を図った。これも米国で見た米陸軍の下士官制度を参考にした。以来20年、今年3月に「上級曹長制度」として正式に制度化された。