2015年は「戦後70年」という区切りをむかえ、「戦後」を問い直す、とか、「戦後」を振り返る、とか、そういう決まり文句で商売をしたい人たちがまだまだたくさん出てくるでしょう。ただ、そういうマーケットの話ではなくて、ディテールがどうだったのか、さらには、歴史を語ることが不可避的に触れる虚実の皮膜をどう考えるのか、といった根源的なことを、もっと考えたいと思います。その意味で、この本も「年末年始に『読みたい』本」としてあげました。
この本を挙げたついでに言うのは失礼かもしれませんが、本書の担当編集者・ハマザキカクさんの『ベスト珍書 このヘンな本がすごい!』(中公新書ラクレ)も、偉業としか言いようがありません。ハマザキ氏は、年間8万冊とも言われる新刊書すべてのリストをくまなくチェックして、「ヤバイ」と直感した本をセレクトしています。私も、暇さえあれば、どころか、暇がなくても書店に足を運んで、本を手に取らずにはいられない活字中毒者の端くれですが、ハマザキ氏の熱意とこだわりには到底かなわないな、と痛感しました。「ビジネスマンのための教養が身につく10冊!」みたいなリストよりも、何の役にも立たないし、どうして作ったんだろう?と思わされる本のほうが、想像力の翼を広げる意味では、はるかに有益だと思っています。ただ言うだけなら簡単で、ハマザキ氏や、荒俣宏氏の新刊『喰らう読書術 一番おもしろい本の読み方』(ワニブックスPLUS新書)のように、ともかく何でも読む人たちの教養にかなうはずがないな、と。わが身の小ささを思い知らされました。
――そしてラストの3冊目は?
鈴木:3冊目は、2014年に出た本ではないのですが、小西康陽氏の『これは恋ではない 小西康陽のコラム 1984-1996』(幻冬舎)です。今から17年前に出た本で、「渋谷系」音楽の中心にいた小西氏が、いろんな媒体に書いたコラムをまとめたものです。当時、坪内祐三氏が植草甚一さんの『ワンダー植草・甚一ランド』(晶文社)と比較した小文を、書評とは別に晶文社のPR冊子に書いておられて、その切抜きを大切に何度も読み返していました。その小文は、「父が渡してくれた『ワンダー植草・甚一ランド』」というタイトルで、坪内氏の『東京タワーならこう言うぜ』(幻戯書房)に収められています。90年代後半の空気をうまくすくいあげるという意味では、小西氏の本だけではなく坪内氏の小文もまた貴重な時代の証言になりうると思います。
その点では、能町みね子さんの『雑誌の人格』(文化出版局)や、久保ミツロウさんとの共著『久保ミツロウと能町みね子がオールナイトニッポンやってみた』(宝島社)、川勝正幸さんの『ポップ中毒者最後の旅 2008-2012』(河出書房新社)は、「いま」の空気を伝えてくれています。
先にあげた『マラルメ詩集』にしても、『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』にしても、『ベオグラード日誌』(書肆山田)にしても、日本語の文章を読んで心地よくさせる才能、ないしは、技芸を確かに感じさせくれます。それは、「渋谷系」の小西さんが書いたから、というよりも、もっとずっと普遍的な「文学」としか言い表せない何かなのではないかと思いました。
2014年は、若杉実さんの『渋谷系』(シンコーミュージック)や、宮沢章夫さんの『NHK ニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版)、酒井順子さんの『オリーブの罠』(講談社現代新書)や、山崎まどかさんの『オリーブ少女ライフ』(河出書房新社)といった、サブカルチャーの歴史、特に80年代から90年代のサブカルチャーの軌跡を振り返る良書が多く出されました。私自身、1980年に東京で生まれて育ちましたので、少しは知っているつもりでしたが、何も知らないに等しいんだと、無知を恥じるとともに、新しい発見に満ちていて、蒙を啓かれました。
『「平成」論』の著者として、「平成という時代は、論じることなんて何もない」と言いたいから、「80年代」や「90年代」を持ち上げるのではありません。日本語の中で生きてきた歴史、生きている現在、そして生きていくであろう未来を考えるきっかけとして、小西氏の本を読み直した次第です。この年末年始にもあらめて読み直してみたいと思います。
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