――続いて2冊目は、苫野一徳さんの『「自由」はいかに可能かー社会構想のための哲学』。
山竹:『子育ての哲学』では、子供がいかにして自由な主体となるのか、というテーマに重きを置きました。この問題は自由の本質論を抜きに語れませんが、この苫野さんの本は、そもそも自由とは何かということを考える上でとても役立つ本です。
これまで自由について論じた本は、哲学や思想の世界でも山ほどあります。そういった本は、大抵、自由の表層的なイメージに囚われています。やりたい放題、という恣意性のイメージや、因果関係や社会的ルールからの解放、といったイメージですね。でも、そういった自由の捉え方は、自由の一面を示してはいるけれども、自由の本質とは言い難い。この本では、現代の難解な自由論のなかに、こうした表層的な自由のイメージを読み込み、ひとつひとつ丁寧に批判していきます。その上で、自由とは何か、その本質に切り込んでいくのです。
苫野さん自身の自由論は、この本を読む限り、自由とは欲望と能力のバランスが取れている状態である、というルソーの書いた『エミール』にかなり影響を受けています。たとえば、医者になりたいと思っても、勉強ができなければ医者にはなれません。医者になりたいという欲望と、医者になる能力が不均衡であれば、自由を感じることができないのです。
苫野さんは新進気鋭の教育学者として注目されていますが、その教育論もこうした自由論がベースになっています。教育とは、欲望を実現するための能力を拡大すること、そしてお互いの自由(の権利)を認め合う感度を身につけさせることだ、というわけです。これらは、私たちが自由に生きるために、とても重要な条件と言えるでしょう。
ところで、最近の若者のなかには、自由に生きろと言われても、どうしていいのかわからない、欲望がわからない、という人たちが増えているようですね。やりたいことを実現するための能力を培おうとしても、そもそも「やりたいこと」がなければ成り立ちません。これに対し、苫野さんは身近な行為に意味を見出し、それを起点に自分の欲望を自覚し、大きくしていく方法を提案されていて、これも大変興味深く読みました。
この本では、これまで現代思想や哲学でどのように自由が論じられてきたかを俯瞰することもできますので、従来の自由論の総括という意味でも役立ちます。欲を言えば、自由な主体がいかにして形成されるのか、という問題についても考察してほしかったところですが、いずれにせよ、一読に値する本であることは間違いありません。
――最後はどんな本でしょうか?
山竹:児童精神科医である小林隆児さんの『甘えたくても甘えられない:母子関係のゆくえ、発達障害のいま』(河出書房新社)です。小林さんは発達障害の子供たちを診てきた臨床経験から、子供のなかに障害を見るのではなく、親子関係のなかに障害を見る、という関係論の観点を一貫して主張しています。本書においても、著者が幼い子供と母親を同時に面接しつつ、その関係のありように注意を向けている様子がリアルに描かれており、大変興味深い内容に仕上がっています。