まず、英語のスピーチとして効果が今ひとつだった。安倍首相の英語の発音は決して悪くはない。例えば2013年2月に米シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)で行った「ジャパン・イズ・バック」演説の時はもっと聞き取り易かったのだが、今回はどうも調子が乗らない感じだった。特に、ユーモアの表現やパーソナルなエピソードの挿入が効果的でなかったりといった点が積み重なって、文意が伝わりにくい演説になっていたのである。
例えば冒頭部分で首相は「自分は『フィルバスター(議事進行妨害演説)』はやらない」というジョークを飛ばしたのだが、これは米議会における「フィルバスター」という習慣そのものを揶揄しているのか、あるいは「自分はダラダラと無意味な演説はしない」という含意なのか、やや意味不明であった。
また、製鉄会社のサラリーマン時代にNY駐在をして「上下関係のない米国の文化に毒された」という部分も、そもそも対等な人間関係というのが当然と考える米国の議員たちには「毒される」という表現は面白くも何ともなかったと思われる。
結果的に首相個人のパーソナリティも伝わらなかったし、日本政府として日米関係を取り巻く現状認識を展開するという意味でも十分に効果的ではなかった。首相個人というよりも、スタッフの総合力として、上手く機能していなかったという印象だ。読み方の問題について言えば、首相は前日の晩餐会で「夫人を相手にさんざん練習した」と言って場内を笑わせていたが、実際は修正に次ぐ修正の結果、練習の時間は十分に取れなかったのではないかと察せられる。
真珠湾にすべきだった献花
内容に関しても、全体的に「力強さ」に欠けたという印象が否めない。
まず、WWⅡメモリアルに献花をしたということを述べて、第2次大戦で戦没した若き米兵に追悼の意を表明したこと、硫黄島の戦いの当事者双方を代表する形で、スノーデン氏という米軍の当時の中隊長と、日本側の栗林忠道中将の孫である新藤義孝議員に握手をさせたというのは演出としては悪くなかった。
だが、この硫黄島での和解と友情のストーリーをもって、戦争和解の全体に拡大するのには無理がある。要するに「思い切り戦ったからこそ今の友情がある」というのだが、そこには「戦いに至った」ことへの反省は込められていないし、また非戦闘員犠牲者を含めた、そしてアジア諸国の犠牲者への追悼への発展性はないからだ。
この戦後70年の年としては、私はやはり首相は真珠湾献花を行うべきで、それがオバマ大統領の広島献花を実現することに繋がると考えている。その意味では、今回の「WWⅡメモリアル献花+硫黄島の和解」という内容は十分とは言えない。
また、歴代首相の歴史認識を継承するという部分は、国際社会との折り合いをつける「最低限」のラインで留まった印象であり、こちらも不足感が否めなかった。前日のオバマ大統領との共同記者会見では、慰安婦問題への見解を問われると「ヒューマン・トラフィッキング(人身売買)の犠牲者には胸の痛みを感じる」という表現が効果的だったが、演説ではその文言は聞かれなかった。