「君は自分の会社で役員になれるのか」
ある大手証券の証券会社の副社長を経験し、その後、有力子会社の社長・会長を歴任した人を取材した時のことだ。いきなりこう聞かれて面食らったことがある。
経済記者として民間企業を担当していると、経営戦略を聞くために社長や役員を取材することが多い。サラリーマンとしてはそれぞれの会社で出世の階段を上り、栄達を極めた人ばかりである。それだけに、自分の息子や娘の世代よりも若い記者を相手に「人生訓」を垂れる人もいる。それも心酔できるほど哲学的で高度なものから、いかにも現世利益的な低俗な内容まで様々だが、酒の席で自分の部下を相手にするような話をする人は、多くの場合、後者の傾向が強かった。
銀行員、作家人生を重ね合わせながら書かれた本
あるグローバル企業の社長、会長を歴任し、経済団体の要職で活躍した人からは、「サラリーマンは役員にならないとだめだぞ」と懇々と説かれた。財界の論客の一人としてならした人だっただけに、「これほどの人でも、そう思っているのか」と複雑な思いを抱いた記憶がある。
日本の保守的な大企業中心のビジネス界の価値基準からいえば、自分の会社で役員になるのは、目指すべき目標なのだろう。かつて会社員の父親を持ち、自分も会社員の一人である身として、その考え方は十分理解できる。会社の中で順調に出世することは大事なことであるし、できることなら筆者(中村)もそうありたいものだと思う。
だが、それが人生の究極の目標なのかと問われれば、それはちょっと違うような気もする。配偶者や子供、親兄弟、地域とのつきあいなど、いろんな「変数」を抱えながら人は生きている。それをすべて「会社での出世」というベクトルに合わせるとするならば、どこかで無理が生じてもおかしくはない。
本書は、著者の江上剛氏の49歳までの銀行員人生と、その後の作家人生を重ね合わせながら書かれた本である。著者は1997年の総会屋事件で旧第一勧業銀行の混乱収拾にあたったいわゆる「改革4人組」の一人である。広報部次長から2つの支店の支店長を経て、作家に転じた。だから銀行員として会社人生を極めた人ではない。だが、そうした経歴の持ち主だけに、書いていることは飾りがなく、本音ベースで説得力がある。