2024年4月20日(土)

裏ななつぼし旅

2015年8月22日

 道の各所に小さな歌碑がある。ほとんどが『古事記』や『万葉集』に収められている古い歌だ。柿本人麻呂の歌が多いのは、彼の妻か愛人がこのあたりに住んでいたからだという説があるらしい。

© naonori kohira

 子らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行きまかめやも(7・126 8)

 巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫のごとし 世の人我れは(7・1269)

 愛する人が亡くなったのだろうか。ここにも千年の時を超えた想いが流れている。現世のことだけを考えるのであれば、ぼくたちは言葉を必要としなかったかもしれない。この世を超えたつながりを感じたから、そのつながりへ向かって、人々は言葉を差し出し、磨き上げてきたのだろう。

 山の辺の道の周辺には、日本列島でも最古の部類に入る古墳が幾つも点在している。わが国では古来より、神は山や木、岩などに宿ると考えられてきた。たとえば三輪山の麓に建立されている大神神社には、拝殿はあるが本殿はない。山そのものが神奈備(神のおられる山)なのだ。こうしたアニミズム信仰の、いわば発祥の地とも言える三輪山の麓に、3世紀ごろから巨大な古墳がつぎつぎに築造されるようになった。せっかく来たのだから、ぼくたちは素早く「歴シニア」と化して、代表的なものを踏査してみることにした。

 天理市から桜井市にかけて連なる古墳群は三つのグループに分かれ、それぞれ大和古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群という名前がついている。国道169号線が、こうした古代遺跡のど真ん中をぶった切るようにして走っている。神をも畏れぬとはこのこと。途中、鯛焼き屋の無粋な看板があったりして、なんだかなあ……。

黒塚古墳© naonori kohira
西殿塚古墳© naonori kohira

 小さなものまで含めると優に40を超える古墳のうち、巨大古墳と呼ばれているものは、北から西殿塚古墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓古墳の4つである。どの古墳も鬱蒼とした木々に覆われ、地上からではただの小山にしか見えない。あの前方後円墳に特徴的な形も、空から俯瞰しなければ確認できない。自然の景観に溶け込んで、人工物であることがにわかに実感できない。時間はかくも容易く、人の痕跡を消してしまうものなのか。

 このうち最初に築造された箸墓古墳が、近年の調査によって卑弥呼の墓である可能性が高まったということで、にわかに注目されている。果たして、ここに卑弥呼は眠っているのか?地元の研究者たちは、明言は避けながらも、「証拠は揃っているぜ」と自信ありげだ。そうなると北九州説も黙ってはいない。さあ大変だ! 卑弥呼とはいったい誰なのか。邪馬台国はどこにあったのか。北九州説か畿内説か……仁義なき戦い、血で血を洗う抗争が、再びはじまろうといている。

  
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