ロドスタウンの旧港の付近には国立銀行、中央郵便局、国立劇場、電信電話局、警察署、カジノホテルなどの建物が整然と並んでおり全て黄土色の重厚な石造りでデザインも統一されている。
カジノホテルで支配人に聞いてみると、ロードス島は第一次大戦後イタリア領となり、これらの一連の公共施設はムッソリーニの時代に建設が始まり敗戦後の1945年以降に完成したという。
国立劇場に行くとあいにく修復作業中であった。男女のギリシア人技師がおしゃべりしていたので聞いてみると建物の構造そのものは全く問題ないが内部が老朽化してきたので新築時を再現するべく作業していると。敗戦後もイタリア人建築技師はそのまま建設に従事したので見事な建築が今も残っているという。ベルリンの国会議事堂などナチス政権下でも多く建設された新古典様式であるとの説明。
敗戦後の混乱の時代でも任務を遂行したイタリア人建築家のプライドに想いを馳せた。そのとき、25年前にイランに数年間駐在したときの光景をふと思い出した。ペルシア湾近くのイラン最南部での油田地帯のプロジェクトの現地視察をした際にカルン川という大河にローマ式の石橋の橋脚が残っていた。付近の世界遺産に登録された世界最古のダムもローマ的なデザインであった。
捕虜となったローマ兵のプライド
もしかしたらローマ帝国が一時的に宿敵ペルシアを破り領土を現在のイラン南部まで拡大した時期があったのかと推理した。しかし歴史的にはペルシアは強大でローマ帝国との国境は常にはるか西方のシリアのあたりである。その後、塩野七生氏の『ローマ人の物語』を読んで疑問が一挙に解決した。
すなわちカエサルの盟友のクラッススがペルシアとの戦いで大敗し多数のローマ兵が捕虜となりペルシアに連行され、ペルシア王の命令でイラン南部に橋とダムを建設したという史実があったのだ。これもローマ兵捕虜達のプライドであろうか。イタリア人気質の一端が理解できたような気がした。
さらに修復作業中のギリシア人技師曰く、「近くのアラビア人墓地も見るべきだよ。1000年以上の昔、ロードス島はアラビア人のイスラム教国家の政治犯の流刑地だった。望郷の思いを抱えここで亡くなった人たちの墓地だよ」。
ロードス島についてはオスマントルコに対抗したキリスト教の擁護者ロードス騎士団の英雄譚くらいしか知識がなかったが、ロードス島には幾多の民族興亡の物語が刻まれているようだ。