2024年11月21日(木)

オトナの教養 週末の一冊

2015年8月26日

 上野東京ラインの開業に対しては、地元の商店街は意外なほど前向きで、これをむしろ東海道方面の来街客を獲得するチャンスだと考えています。上野を生活圏にしていなかった人たちに対しては、アメ横に象徴される下町の雑踏も、ある種の新鮮な魅力として美術館・博物館とともに売り込めるという読みもあります。

 それにもちろん、いまの観光客の主力は外国人です。街を歩いている半分は外国人、売り上げになると9割は外国人なんていう声も聞こえる中で、いち早く中国語圏向けのSEO対策などをした店は、本当に繁盛しています。いずれにせよ、買物の街から観光の街へという傾向は加速していくでしょうね。

ーー77年生まれの私が高校生くらいの頃には、アメ横へ行けば輸入品が手に入りやすいというのもありましたね。

五十嵐:かつてアメ横は、どこで買えるかわからないモノでも、とりあえずアメ横に行けばまず手に入るというような場所でした。ただ、そういったロングテールのモノは、いまはネットで手に入りますからね。アメ横には、輸入雑貨の他にも、軍モノやナイフといった非常に特殊で、アメ横の得意分野とも言える販売店があります。そういったお店も現在の売上はほとんどネットというところが増えていますが、アメ横の店というブランド力を大事にして、実店舗をショーケースのように考えて維持しているところもあるようです。

ーー他にも常磐線沿線には水戸などの都市もありますね。

五十嵐:余談になりますが、本書の裏テーマとして「水戸はなぜ金沢になれなかった問題」があるんです。序章でも書いていますが、常磐線は東京とアイデンティティのあるどこかの都市をつなぐ路線というより、東京から出発した電車がぼんやりした田舎に向かっていくようなイメージです。本来は、その「つなぐ」街になるべきだったのは、水戸なんですよね。

 今年の3月14日に北陸新幹線が金沢まで開通したことは華々しく報道されましたが、同じ日に東京上野ラインも開通したのにそこまで報道されない。金沢にも、水戸にも同じ日本三名園があるのに、その日のテレビに出る絵は兼六園の雪吊りばかりで、梅が満開だった偕楽園は存在感ゼロでした(笑)。昔を遡れば金沢は加賀100万石ですが、水戸も徳川御三家であり、北関東最大の都市だったんです。それだけアイデンティティのあった街が、少なくとも20世紀に入ってからそういった役割を果たせていないのはなぜなのかという問題です。基本的には水戸が東京に「近すぎた」ことが構造的な問題だと思いますが、それだけでもない気がします。

ーー昔であれば、水戸学があり学問も盛んだったわけですしね。

五十嵐:はい。当時の水戸は文化的水準が高く、全国の知識人にとって憧れの街でした。関東へ遊学した吉田松陰は水戸に滞在していますし、この本で水戸市役所の職員の沼田さんがコラムに書いてくれていますが、明治に入ってからも、現在の常磐線が開通したとき、正岡子規が水戸まで汽車で行けるようになったのを喜んだ日記を記していたりします。水戸学はある意味幕末期の水戸藩の一大産業でもあったらしいんです。徳川斉昭や藤田東湖による墨蹟の漢文を拓本にし、それが「水戸拓」として全国の知識人へ売れたんだそうです。

 しかし、現在の観光化に連なる地域の伝統という意味では、水戸学はあまりにアピールする範囲が狭すぎ、一方で金沢の九谷焼や加賀友禅にあたるようなものがない。それに対して水戸藩の陶器といえば笠間焼で、これはとても質素な日常使いの、まさにコモディティなんですね。学問を重んじる一方で生活は質素な水戸藩の気風が影響していたんでしょうが、常磐線沿線全体を貫くコモディティの供給地という特徴に相通じるところもあって興味深いですね。


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