3つ目には、今年3月から常磐線や高崎線、宇都宮と東海道線が乗り入れる上野東京ラインが開通したことで、東京の北の玄関口という上野駅のこれまでの役割がかなり変化するという転機が、この本を出すいいタイミングだろうと思ったことです。
この本の企画に大きな影響を受けた著作をひとつ挙げるとすれば、2012年にサントリー学芸賞を受賞した『北の無人駅から』(渡辺一史著、北海道新聞社)という本です。北海道のいくつかの無人駅に、農業や漁業、地方自治、観光などのテーマを割り当てた章を連ねて地方の現在を記述するという大変面白い試みで、それを読んだ時に、私自身は東京から次第に離れてゆく一本の線でこうした本を作ってみたいと思ったんです。
ーーそうした背景の中、本書には章ごとに様々な書き手が参加しています。すべてを貫くコンセプトのようなものはあるのでしょうか?
五十嵐:常磐線が走る郊外には、中央線のサブカルチャーや、関西で言えば阪急沿線のモダニズムのように全国区の存在感を誇る沿線文化はないですよね。もっと先の区間を見ても、青森のリンゴや愛媛のミカンのような、多くの人にはっきり像を結ぶブランドはありません。ただ、それは常磐線沿線の重要性が低いことを意味していません。むしろまったく逆で、この沿線の地域は近代を通じて、あまりも当たり前に首都圏の消費者の日常にある本当にたくさんのものを、淡々と供給してきたんです。先ほども「イメージがない」というお話がありましたが、イメージがないというのは「これという目立った特産品がないこと」、逆に言えば「何でもある」ということなんですよ。4章を担当した小松理虔さんと話している中で出てきたキーワードが、「コモディティ」です。常磐線沿線を貫く最大の特徴と考えれば、首都圏へのコモディティの供給地ということなんじゃないかと。その象徴が、きわめて多品目にわたって農産物を生産している茨城県の農業です。
ーー確かに、先日、銀座にある茨城県のアンテナショップに行ったら、様々な農作物が売られていました。
五十嵐:そうなんです。茨城県というと、まあ納豆を名産品として思い浮かべる人は多いでしょうが、長らく北海道に次ぐ農業生産額を誇る農業大国なのはあまり知られてないでしょう。茨城の気候は温暖、地形は平坦で様々な農作物を生産出来ますし、東京圏から近く非常に産業化されやすいからです。しかも茨城県は、チンゲン菜や水菜、春レタス、白菜、鶏卵、マイワシ、サバなど、私達が日常的に口にしている幅広い農水産物の生産額1位ですが、どれもブランド化されているわけではなく、地元の人ですら1位だということを知らないのがむしろすごい。福島県に入っていわき市は、板かまぼこの生産量が1位ですが、これもまたいわき市民にさえあまり知られていません。かまぼこと言えば、一般的には小田原か仙台ですよね。象徴的な例を挙げれば、カップラーメンに乗ってるナルトやキャラクター型のかまぼこの生産の圧倒的シェアを誇るメーカーもいわきにあります。こういうどこで作られているのか消費者の意識にまったくのぼらないような、でも、ないと困るものを安定供給してきたわけです。実際、震災直後に津波被害でいわきのメーカーの生産がストップしたとき、ポケモンカップ麺のピカチュウかまぼこが、しばらくチャーシューで代用されたりしたんですよ。