毛利 たぶんね、食の不安よりも、むしろ現政権のかなり強引な運営と、ここに至るプロセスへの反発が重なっているんじゃないですか。
五十嵐 それはそうでしょうね。
毛利 データで説得するにしても、政権のデータの使いかたに恣意があるし、いろいろな陰謀論を誘発するような態度もある。今は右も左も陰謀論で溢れていますよね。首相やその周囲までも陰謀論めいたことを国会で発言してしまう時代ですから。
五十嵐 陰謀論のフレームがここまで力を持ってしまった時代は初めてなのかも知れませんね。
国がやるべきではないこと
毛利 解釈共同体ということでは、安東量子さんたちの「福島のエートス」(チェルノブイリ原発事故後にベラルーシで行われた回復プログラムの日本版。住民が主体となって、検査体制と医療体制といった行政のバックアップを受けつつ、生活と環境の回復を目指す試み)はユニークですし、評価すべきだと思います。最近、水越伸さんと佐倉統さんの三人で『5:Designing Media Ecology』という雑誌を始めて、その3号の『3.11後の科学と生活』という特集の中で、佐倉さんが中心になって科学的知識と日常言語の問題を扱っているんですね。
佐倉さんの議論だと3.11の後、政治的結論を前提とした感情的な「反知性主義」が蔓延する一方で、研究者の側の尊大な「パターナリズム」や「専門家主義」があいかわらず続いていて、この二つが交錯することがますます難しくなっている。「福島のエートス」は、住民が主体となって実際の調査を行うことでこの二つの越えがたい溝を埋めようという試みと考えられるというのです。「福島のエートス」は左派の中では激しく批判する人もいますが、こういう取り組みを軌道に乗せていくことがすごく大事だと思います。
だけどそれがなぜ批判を浴びてしまうのか。それはそうした言説が、ある面では原発推進の道具に使われたりするからではないでしょうか。恐らく「食の安全」もそのように利用されてしまう側面がある。本来は政府がやるべきことがたくさんあるのに、それをやらないことの言い訳に悪用されてしまう。これは実際に食べ物が安全であるかどうかとは別の議論ですね。
五十嵐 別ですね。
毛利 その恐れを抜きにして語るのは難しい。
五十嵐 それは農水省の人から聞いた、「危険な輸入食品はすべて中国産かアメリカ産だと思われてしまう」という話と同根で、「自分が嫌いな奴は悪いことをしている」と思う心性を払拭するのは難しいという話に聞こえます。切り離すべきだけど切り離せないという現実は、生産者側も理解しないといけないのかも知れません。ただ、その切り離せなさを肯定的に評価する気にはなれないですね。
毛利 それは「風評が悪い」というよりも、繰り返しになるけど議論のプラットフォームを作っていくしかないんじゃないか、みんなで評価する仕組みを作るしかないんじゃないかと思うんですね。それは残念ながら国には任せられない。