対談

2015年10月27日

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五十嵐 いや、こうした市民的な議論のプラットフォーム作りは、国に任せられないのではなく、むしろ「国がやるべきではない」のだと思います。僕もまだ整理しきれていないですが、これは重要な論点です。

 柏の円卓会議のスタンスは、国や自治体に何かを要求するということは特になく、「対立するつもりはないので、邪魔だけはしないで欲しい」というものでした。言い換えればこれは、行政にあまり期待をしていなかったということでもあります。これはある種のアナーキズムに近いものであったかも知れないし、民間にできることは民間に任せろという意味では、小さな政府志向であり、ネオリベラル的な発想だったといえるかも知れません。この辺の感覚は、除染を自治体任せの「行政サービス」ではなく、市民ボランティアで進めていこうとした除染のグループとも相通じるところがあると思います。

 これに対して、放射線対策はすべて行政が果たすべき責任だとして要求していく人たちは、舌鋒鋭く行政批判をするんだけども、裏返せば行政に大きな期待をしているようにも映るんです。もちろんそうした要求と、損失に対する補償を求めていくこととはまったく別の話なのですが、行政への批判と、ある種の期待との間にはねじれがあるようにも思えるんですよね。

毛利 その関連でいえば、90年代からやってきたいわゆる高円寺型の運動では、反原発は中心的なイシューではなくなっているんですよね。むしろ自治とか、自立した共同体作りとか、そっちに移っています。

五十嵐 それはわかります。

毛利 素人の乱の松本哉くんたちも、アジアを旅行してアジア中に拠点を作って、その間を移動できる仕組みを作るといった方向に向かっています。高円寺に「マヌケハウス」という移動してきた人が泊まれる宿を作ったりしている。運動の一部の流れは確実にそちらに向かっていて、たとえば官邸前の抗議運動も応援はするけれども、積極的な参加ではない。国とやりあっても得られるものはないから、そんなことやっている暇があるんだったら自律的な空間を作っちゃったほうがいい、そんな割り切ったノリもありますね。

 今の自民党政権には、日本の隅々まで政府が管理する国にしたいという志向がありますよね。大学の自治に対してもそういうプレッシャーが色濃くありますけど、実際にはそうなっていなくて自由ないくつかの権力体がある。たとえば東京都と新宿区の間には相当な温度差があったりもする。その小さな自由のなかで、いろいろな集団がどうやって活動できるかに、僕は興味があるんですよね。

 右派が肯定的に、左派が否定的に抱いている一元化された国家のイメージは、現実には無理なんだと思います。国家にも一元管理する能力はないから、地方分権とか地方創生で分散化してしのごうとしている。それでいえば、おそらく原発は一元化された権力でしかうまく動かせないものなんですよね。

五十嵐 動かせないでしょうね。

毛利 予算的にも、仕組み的にも動かない。無数の小さな原発を分散型の仕組みで回していくことなんて不可能でしょう。危機管理上も情報管理上も分散させようがない。

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