2024年12月3日(火)

映画「ATOM」公開記念 特別企画

2009年10月20日

(C)手塚プロダクション・虫プロダクション

『鉄腕アトム』がアメリカで初めて放送されたのは1964年。それから45年を経て、香港とハリウッドの制作によるCG版『Atom』が、10月10日に日本で公開された。いまや日本のアニメーションは世界中から高い評価を受けているが、その歴史を切り拓いたのが『鉄腕アトム』のアメリカデビューだった。当時、ソニーの副社長だった盛田昭夫氏がアメリカに乗り込み、トランジスタラジオの本格的な販売を開始したのが1963年。まだ「Made in Japan」のブランド価値が確立されていなかった時代の話である。

株式会社ビデオプロモーション
取締役名誉会長 藤田潔氏

 東京都港区赤坂。窓外に日枝神社を望むオフィスビルの中に、株式会社ビデオプロモーション(総合広告会社)がある。その名誉会長である藤田潔氏こそ、『鉄腕アトム』をアメリカに売り込んだ人物である。藤田氏は今年80歳を迎えた。小柄ながらがっしりとした体躯に、まっすぐに伸びた背筋。数々の修羅場を乗り越えてきたことがひと目でわかるその佇まいからは、凄みが漂う。藤田氏は30歳で会社を立ち上げ、34歳の時に『鉄腕アトム』をアメリカで売るという快挙を成し遂げた。

 インタビューの冒頭、「『鉄腕アトム』をアメリカに売り込んだ時のお話を伺いたいのですが……」と切り出すと、藤田氏は、しゃがれ声で言葉を探すように言った。「あのね、仕事というものは、いろんなことをやってきたなかで、それがつながることによって、発展していくものなんだ。だから、『鉄腕アトム』の話だけを切り離して語ることはできないよ」。

日本のものなど売れるわけがない

 1963年に渡米したそもそもの目的は、『鉄腕アトム』を売ることではなかった。

「当時、うちでマネジメントを手がけていた歌手のアイ・ジョージが、カーネギーホールで歌いたいと言うんだ。『大変だし、やめとけ』って言ったんだけど、『どうしても』と引き下がらない」。結局、その熱意に負けて、アメリカへ交渉しに行くことを決めた。藤田氏にとって、それが初めての渡米だった。

「せっかくアメリカに行くんだし、日本のアニメーションも売り込んでみよう」

 その頃、先進的なアニメーションで注目を集めていた久里洋二氏、真鍋博氏、柳原良平氏らが結成する「アニメーション3人の会」をマネジメントしていた藤田氏は、彼らにアメリカで売りこむためのショートアニメーションを作らせた。また、彼らが所属する「漫画集団」とも親交の深かった藤田氏は、同じくそこに所属する手塚治虫氏にも声を掛け、当時、視聴率30%を超える人気番組だった『鉄腕アトム』のフィルムを貸してほしいと頼んだ。「売れるとは思えないけど、すべてお任せするのでどうぞ」と手塚氏は快諾してくれた。

 テレビ局の関係者からは、「日本のものなど売れるわけがない。恥ずかしいからやめなさい」と諌められたりもした。だが、「やってみないとわからないじゃないか。きっと売ってみせるぞ」と、闘志が湧いてくるのを感じたという。

アニメーションが持つ可能性

 なぜ、アメリカにアニメを売り込もうと思われたのですか?

「当時は、日本のテレビ局もまだ開局して間もなかったし、アメリカから輸入した番組をゴールデンタイムに放送するような時代だったんだ。『ローハイド』とか『パパは何でも知っている』とか。日本の番組をアメリカに売ろうなんて誰も考えていなかったけど、僕は、アメリカと対等にやれるとしたら、アニメーションくらいしかないと思っていた。当時の日本は発展途上国だったから日本人が演じる劇は見てもらえないだろうけど、アニメーションは無国籍だからいけるんじゃないか、と」

 自らマネジメントに携わってきた経験があるからこそ、日本のアニメーションが持つ可能性を冷静に見つめることができていたのかもしれない。

 英語が堪能で現地に詳しい鈴木国際部長を連れて渡米すると、まずは、アイ・ジョージ氏の夢を叶えるため、カーネギーホールに向かった。

「行ってみて初めてわかったんだけどね。カーネギーホールは貸しホールだったんだ。ただし、品格を落とすようなものはやらせてもらえない。誰にでも貸してくれるわけじゃないんだ」

 初めてのアメリカでの営業はさすがに緊張して臨んだが、アイ・ジョージ氏の熱意が相手に伝わり、OKをもらうことができた。


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