事故後、村民は引き上げられた遺体を、樫野埼の丘に丁寧に埋葬した。また、海からあがった遺品、遺留品を一つずつ丁寧に洗い、トルコに送ったとのことである。死者に対する思いやりや畏敬の念を表す、いかにも日本人らしい行いだ。現在はこの地にトルコ軍艦遭難慰霊碑が建てられ5年ごとに追悼式典が行なわれている。
イラン・イラク戦争での恩返し
この地で始まった日本とトルコの絆は、この95年後、イラン・イラク戦争時に起きたテヘランのトルコ人による在留邦人救出という「恩返し」につながっていく。
1985年に始まったイラン・イラク戦争。当時サダム・フセインは48時間以降にイラン上空を通過する航空機を無差別に攻撃するという宣言をした。各国は軍用機や旅客機を出して期限内にイランから自国民の脱出を図るが、日本は当時、国会の承認に時間を要するためすぐに自衛隊の海外派遣ができなかった。また、民間航空である日本航空は安全が確保できないとして臨時便を出すことを拒否した。窮地に立った在留邦人は215名。
彼らを助け出したのはトルコの人々だった。イラン駐在大使からの依頼を受けたトルコ政府は余分に臨時便を出すことを決め、テヘランに向かった。また、現地にいたトルコの人々は、自分が乗るはずだった飛行機の席を日本人にゆずることに同意した。このため陸路でテヘランを脱出しなくてはならなくなったトルコ人は500名以上になるという。そして在留邦人は無事日本に帰国することができたのである。
日本人である自分からすると、このトルコ人による邦人救出劇は、過分な「恩返し」とも思われ、胸が熱くなる。二つの事件に共通するのは、重要な役割を一般国民が担っている点だ。串本の村民が自発的に動き、それが区長から町長へ、知事へ、そして中央政府にまで伝わり国が動いた。テヘランにおいては援助機を出す決定は首相が決断したものの、危険な空域を飛行する決断をした民間のトルコ航空、そして飛行機に乗れる資格を持っていたトルコ国民自らが、日本人たちに席を譲ることを決め自発的に動いた。たとえ国が離れていても、言葉・文化・民族が異なっていたとしても、真の平和や友好は、こういった地に足のついた「思いやり」や「真心」によって生まれ、そこから育まれる友情からスタートするのではないか。
トルコの人々に、好きな国について質問すると、たいていは「日本」と回答するという。そして、日本で知っている場所は、と聞くと「串本」という答えが往々にして返ってくるとのことだ。では、日本人は「トルコ」のことをどれだけ知っているだろうか。「テヘラン」のことを知っているのだろうか。もし忘れてしまっていたら「テヘランの恩返し」は、日本人によって行われるのだろうか。
今年2015年は、エルトゥールル号海難事故から125周年、そしてトルコ航空による邦人救出劇から30周年という区切り年である。先日、12月5日(土)に、日土共同合作映画である「海難1890」が封切られた。これはエルトゥールル号海難事故と、トルコ人による在留邦人の救出劇という二つの実話を後生に残すための映画である。この映画を見ると、歴史は過去と未来に繋がっていることを実感できるだろう。そして現代において、日本人としてできることは何かを考えさせられる。過去から受け継がれた「思いやり」を未来に継承していきたいものである。この日本とトルコにとって記念すべき年の締めくくりとして、「海難1890」を鑑賞してみてはいかがだろうか。
県串本町観光協会ウェブサイト
http://www.kankou-kushimoto.jp/
「海難1890」公式サイト
http://www.kainan1890.jp
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