日本でも石油は少し出る。しかし、毎日おおよそ450万バレル、すなわちドラム缶で400万本弱消費されているうち1%以下であろう。10年を昔というなら、一昔と少々まえまでは、1割以上は自家製で押さえていた。アラビア石油(株)が、サウジアラビアとクウェートの国境地帯のカフジ沖で原油を産出していたのだ。実際に、海上にあるギャザリングセンターと呼ばれるプラットフォームや、現地本社や従業員の住宅がある地区にも行ったことがある。なぜ、そんなところに利権を持って採掘し、日の丸原油が出たのかとても興味がわく。その権益は、今はない。巨大原油消費国ジャポニカの10%をまかなう、そのカフジ油田は、どうしてなくなってしまったのだろうか。
油の一滴は血の一滴
先の大戦も、石油戦争であったはずだ。我が国に石油を売らないという、「オイル・エンバーゴー」を通告してきたことが大きなきっかけであった。お陰で、真珠湾攻撃の直後に、インドネシアの大油田パレンバンとロイヤルダッチシェルの製油所を占領してしまった。最初は吉と出たが、最終的にはごらんの通りだ。もし、自家油田があれば、別の道もあったかもしれない。当時は、油の一滴は血の一滴だという言葉でいろいろなことが正当化されていたのだろう。油が戦略商品となったのは、その直前の事で、ペリーの黒船は風で走り、港では石炭。その後も長らく石炭による外燃機関が主力であったのだが。
そもそも、初めて中東の商業的石油掘削が始まったバハレーンで、1932年のことだ。それまでは、アラビア湾の主な産業は天然真珠採取で、劣悪な環境で採取した真珠が現地の主要輸出品であった。バハレーンでの原油生産開始と期を一にして御木本幸吉が始めた真珠ビジネスが世界を席巻し始めたのも面白い偶然かもしれない。同時期に、御木本はニューヨーク、ロンドンなどに支店を出して、名声を獲得している。
もし、原油が中東で見つからなければ、頼みの真珠産業も衰退してどのように生計を立てていたのだろうか、心配になる。捨てる神あれば拾う神ありというのは本当である。この場合、拾う神が怪力であったという事かもしれない。
石炭から、石油の時代に変化したその日に、幸運がやってきたようなものだ。こんな戦略的重要物資がちょいと掘ればわんさと出る地区が中近東のあのあたりだ。残念ながら、バハレーンの井戸は早くに涸れてしまったようだが、クウェートやサウジアラビア、アブダビは元気いっぱいだ。
値段も1バレルあたり数ドルであったのが、第一次、第二次オイルショックや、リーマンショック直前の好景気の最中に、150ドル近辺まで上昇したのは、記憶にあたらしい。お陰で、世界がどうなろうが、サウジやクウェートでは、低負担の高福祉が実現していた。