高校進学後はバレーボール部に入部した。偶然にも同期は野球や剣道、バスケットボールなどをやめた者たちの集まりだった。野口は「最初は打ったサーブが向こう側のコートに入らなかったんです。長い間サッカーばかりやっていたから腕の使い方がわからなかった」と笑った。同期の部員たちも似たり寄ったりだったようだ。
いかにサッカー少年だったか伝わるエピソードだが、野口は部活と並行して、フットサルを独学で学び始めた。
「とにかく上手いプレーヤーをよく見ました。ただ見ているだけじゃなくて、どんなタイミングで周りを確認しているのかや視野の確保、どこでボールタッチしているのかなどを見て、盗んで、自分でも試してみて、様々なプレーを客観視できるようになっていきました」
プレーを断念した野口にとって、それはまるで乾いた大地が水を吸収するようなものだったのかもしれない。
そうした経験が後年ヘッドコーチの基礎となって生きてくる。ただ当時はアンプティサッカーという競技の存在をまだ知らなかった。
母親の影響で義肢装具士の道へ進む
母親が看護師をしていた影響で、野口は早い段階から医療系に進みたいと考えていた。具体的に義肢装具士になりたいと思ったのは、実家の近くにある専門学校のオープンキャンパスに行ったことがきっかけだった。高校2年生の秋のことである。
「自分が作った義足で足を失った人が、また立てるようになったり、歩けるようになるって考えたら、すごい職業だなと思ったのです。そう思ったら他の職業のことが気にならなくなって、オープンキャンパス後は義肢装具士になろうと決めていました。やりたいことは断固やる。頑固なんですよ。僕の中ではそれ以外の職業の選択肢は一切なくなりました」
高校卒業後は埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンター学院の義肢装具学科に3年間通って国家試験に合格した。
卒業後は埼玉県さいたま市の(有)坂井製作所に就職し、現在は主にコルセットや装具を中心に作っている。
「この仕事のやりがいは、自分で患者さんから型を取ってそれをすべて自分が作ることです。患者さんのことを思いながら作ることも楽しいのですが、作ったものを実際に患者さんに合わせてみたときに、合うとか合わないとか、いろいろな反応や言葉をいただきます。同じものは一つとしてありませんし、100%満足のいくものもそうできるわけではないんです。
大きな会社ですと生産性を求めますから、患者さんから型を取る人と、製作する人が別だったりします。その点うちの会社はひとりですべて進めますから、出来上がって、患者さんに喜んでもらえたときの喜びは大きいですね」